如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.6『信巻3』(瓜生崇師)

2022年1月18日(火)収録

京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.6『信巻3』 祇園舎 瓜生崇師

youtu.be

私のこころなんて
すこしもあてにならない
じゃないか
by親鸞聖人

信巻での叫び。じゃあ、わたしの信心とは、「至心信楽欲生」とはなにか「わたしに南無阿弥陀仏がとどいたということ」。わたしのこころではない。自分の心を信仰の拠り所にしたら、崩れゆくことと戦い、迷っていかなければならない。
南無阿弥陀仏の信心は、「不退」。わたしに証がないから。

「それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」(『教行信証』信巻【真宗聖典】239頁)

わたしの受け取りは関係ない。南無阿弥陀仏が貫いたわたしの思いを差し挟む余地のない瞬間。理解を超えた喜びの心。

「「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。」(『教行信証』信巻【真宗聖典】240頁)

「あっ!!!」と声が出た。仏願の生起本末が南無阿弥陀仏を聞く事である。自分がその本願の元。なんともいえないものが自分の中に込み上げてきて、声が出た。ぶわわわわわっと込み上げてくるもの。このあと聞いたお話がわたしのこととして入ってくるような感じが続く。特段ここを強調されたお話ではなかったのに、今日聞いたのはここ。書くとすごく陳腐。

「真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」(『教行信証』信巻【真宗聖典】250頁)
阿弥陀さんの金剛心で臨終の際には弥勒と同じになるといっていたのに、
「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」(『教行信証』信巻【真宗聖典】251頁)
喜びからのすくわれても喜びの心が起きないという深い慚愧。なぜ?ここから別の課題に入っていく。

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法」(『無量寿経』【真宗聖典】18頁)
唯除の問題に入っていく。
お話を聞いてもすくわれた感じがしないとき、
 ・そういうものだ(開き直り)
 ・わたしは除かれているのではないかという疑念

自分が除かれていないか確認しているということなんだな。自分もそう考えているな。確認に入る。

『涅槃経』(現病品)に言わく、・・・
 一つには謗大乗、
 二つには五逆罪、
 三つには一闡提なり
 かくのごときの三病、世の中に極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。」(『教行信証』信巻【真宗聖典】251頁)
仏さまじゃないとこの三つの者はすくえない。

すくわれない者・・・『観経』の話へ。

阿闍世って、自分と同じという共感というより、深い底のところ、心が定まらない様、心に翻弄されて罪を犯すところに自分だという共感を越えるものがある。阿闍世のやってることは自分がやっていること。聞けば聞くほど自分だと思う。地獄に落ちるのが怖いというのは自分を守りたい気持ち。慚愧じゃなくて後悔をする。
六師外道の話とお釈迦様がそれと同じような話をされるようだけど、ちょっと詳しく調べたい。
阿闍世は、阿弥陀さんと同じ大悲の心を起こすのだけど。
「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」(『無量寿経』【真宗聖典】13頁)
同じようにはならない自分。すくわれている姿をみせてくれているのになあ。

【悉知義】
『教行信証』信巻の冒頭【真宗聖典】209頁 真宗大谷派の真宗聖典にしか載っていない、メモ書きのようなもの。
そんなこと気にしている人、誰もいないですよ。という。
自分は仏法を聞いたときから、「慚愧」という言葉がすごく気になっていた。それは本当には出来ないと思っていたからだ。仏法に惹かれたひとつは、親鸞聖人が「慚愧出来ない」とおっしゃるお話を聞いたのも一つ理由としてある。お話を聞いたり、お聖教を開いたりするにつけ、慚愧できない人間というものを深く見せられると同時に自分の中もそうでしかないというのを時にハッと気がつかされる。でも、いつもは悉知義なんだ。悉知義も阿闍世も自分。わたしはどこにもいて、どこにもいない。除かれた身でもあり、そんなものなんだと開き直ることもある。どうしようもない。

「無慚無愧のこの身にて
  まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば
  功徳は十方にみちたまう」(『正像末和讃』愚禿悲歎述懐4【真宗聖典】509頁)

だからある阿弥陀仏の本願。真如からのはたらき。わたしがいるから、はたらきがある。

 

◆前回はこちら

luhana-enigma.hatenablog.com