如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第一回(瓜生崇師)

2021年1月16日(土)開催

真宗ねこねこ法話会『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第一回

 瓜生崇師

イントロダクション・無量寿経の成立

shinshuhouwa.info

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【親鸞聖人について】

・「専修念仏」の法然上人の元へ。

・法然上人の辿られた道  「順彼仏願故」に出遇われる(浄土宗が生まれた瞬間)

わたしができるどうしたらから、阿弥陀さんがすくうにひっくり返る。

どうにもならんわたしがいる→三学非器(戒・定・慧ができない)

  『観無量寿経』を元に見ていかれる。これを出発点とした先人が多い。

  (三経一論)

・名前の変遷

  範宴(得度)

→綽空(吉水入門時)道綽+源空 『観無量寿経』に求めた方

→親鸞(宗祖の名乗り)天親+曇鸞 『無量寿経』に求めた方 

  親鸞聖人の大きな転換。

「それ真実の経を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」(『教行信証』教巻【真宗聖典】152頁)

 

 親鸞聖人が比叡山を降りて法然上人の元に行かれた思いについて、瓜生師が親鸞会を辞められた経験から思われたことを語られる。こういうお話はその人からしか聞けない話だ。自分の辛さとは違うとおっしゃっているが、それはそうとして自分の中にはない真剣に求めるということについて他者から教えてもらうことがある。

 宗教をやめる人について。自分が本当に求めていたことを変えること。その人にしか分からないことがある。他人がどうこういえない。自分にも、すくわれないと思って宗教を捨てた友だちがいる。それを見たら本当に口を挟めない。そういうことがあるんだということを見たことがある。自分の上にも起きるかもしれない。

 

【無量寿経の漢訳】

・五存七欠 元々は12種類あったといわれている。※最初から7つはなかった説

・お釈迦様が話されたのは古代マガダ語(ではないか)→パーリ語→サンスクリット→漢文

・訳僧によってサンスクリットが完訳された。

 ※漢訳はどうやってされたのかという本がある。

・聖典の『無量寿経』は康僧鎧訳になっているが、仏駄跋陀羅・宝雲共訳が有力な説(そんなになんでもかんでもわかってるわけではない)

・『無量寿如来会』菩提流志 

※曇鸞大師に浄土教のお経をあげたのと、『浄土論』を訳したのは菩提流支

・親鸞聖人が読

まれていたのは4種類。いろんな訳本を見られている。

・願が24願→48願→36願と変わっている。中身が深まっていく。

・名を聞くということが、後の無量寿経に入ってくる。

・どうして同じ原典から訳して変わるのか

 

【無量寿経の初訳】

・『大スカーバティービューハ・極楽の荘厳』47願 6~7世紀 

→漢訳が深まっている途中のもの

・お経は変わっていく。『無量寿経』は変化している。

・元々お釈迦様の教えに、阿弥陀仏、浄土、念仏(称名)はでてこない。

 お釈迦様が言ったことじゃないんじゃないの?に向き合う

→仏教の教えは、お釈迦様のおっしゃったことを答えにすることではない。

 お釈迦様の教えられたことを始まりにする。

 誰かが言ったからこれは間違いないんだ!というのは思考停止。そこからちょっとでも外れたことを言ったらおかしいといわれるのはちがう。

 『大無量寿経』を本当に深く彫り込んでいったならば、その中に書いてあるのはお釈迦様の教えを深めてきた無数の人たちの歴史。われわれもそこに入っていく。

 批評家(わたしたち)は産みだした人(お釈迦様)が気づいていない深い意味を掘り出すことがある。

 お釈迦様の覚りをどんどん深掘りしていたのが大乗仏教の歴史。その教えを深めていく人たちは、その歴史に学ばなければならない。親鸞聖人は?天親菩薩は?法然上人は?それを徹底的に学んでいって初めてわたしたちがお釈迦様の教えを深めていく末席に連なっていく。偉い人が言うことが間違いないというのはちがう。最終的にすくわれるのはわたし。勉強したら詳しくなる。それとわたしとどう関わり、どう目覚めさせるのか、そこに踏み込まなければならない。このわたしが一番最後に加えさせてもらうんです。これが大乗仏教。この歴史がぎゅっと入っている『無量寿経』は面白い。

 

 『無量寿経』を読むということがどういうことなのかを聞いた。本当に自分の聞くこと、聖典を開くことが自分だけのことから大乗仏教の歴史の末席へとひっくり返されたのだった。ただただ勉強しようと、知らないから知識を得ようという軽く浅はかな自分を見る思い。出来るのか出来ているのかわからないけど、続けている今。お経、お聖教を読むというのは僧侶が宗門大学ですることなのかなと思っていたけれど、自分も出来るんだと思ったなあ。聞くだけで「自分が読む」とは思わなかったなあ。