如是我我聞

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『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第三回(瓜生崇師)

2021年3月3日 『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第三回 瓜生崇師
普賢の徳とは

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【質問コーナー】
・「南無阿弥陀仏がわたしを貫く」の別の表現はありますか?
無明の闇が破れる。他の人の表現もみてみるといい。

・自分の理性で阿弥陀さんの救いを受け取ろうとしていることが、阿弥陀さんの教えを蹴っ飛ばしているとは、わたしたちにはやむを得ないのではないのでしょうか?あまりに難信を強調することが阿弥陀さまの本意なのでしょうか。
病院に行きたくなくて逃げまくるねこ→にぐるもの=わたし
自分の思いの先に本当のすくいはない。「やむを得ない」という開き直ってそれでいいといってしまうことはそうではない。すくうといわれてもピンとこない、石のように冷たいわたしが、願いを生じたのだ。そしてさらに背く自分を知る。深い喜びと深い悲しみがある。ふたつのことを言っているようだが、ひとつのことだ。
如来の側から見て、わたしから見て。拒絶する私が居るから、南無阿弥陀仏が響き続ける。
安心して絶望する。

・『無量寿経』に称名念仏出てくるのではないか・・・
『観無量寿経』にある。『無量寿経』で称名と読める部分は、『観無量寿経』に遡る。

・「さとり」の基準ってなんでしょうか
阿難は仏典結集の日の朝に寝床から落ちて覚ったといわれている。わからないですね。

・「我」が存在しないのに、誰(なに)が往生するのですか?
・アートマンのような不変のわたしはいないというのですが、今執着心をもったり苦しんだりしているのは誰なんでしょうか。
→今かなしんだりがんばったりしているわたしを我と勘違いしている
わたし=機 機械の機、機織り機 
 実は周りの影響、いろんな人の言葉、環境に揺れ動きながら自分の思いとは別に感情が起こっている。
 ペンを持ち上げるとする。ペンを持ち上げようと思う前に、持ち上げている。あとから意識が追認していると今科学で分かっている。
 阿頼耶識 業がずっと流れている。これをわたしだと思っているのが末那識。
 その上に耳目鼻触舌意識の感じるわたしがいる
本当の浄土のすくいはわたしの思いの延長にはない。だから、自分に捕らわれる自分が行くのではない。必ず浄土に生まれるということは、真如からまた迷いの世界に戻ってくることでもある。回入生死(二十二願で説明する)。浄土に生まれることは、この世界にわたしが生まれるようなものではない。無生の生。
主体がわたしだと勘違いしている。この世界でも今生まれ、今死んでいっている。昨日のわたしと今日のわたしは一緒だと思っている。でも仏教ではいない。流転輪廻で迷うというのは業の流れをわたしだと勘違いして執着しているから自分がいるように思っている。

ここの「機」の話はいつきいても自分がぐらぐらしてきてすごい。自分とはなんだろう。これは不安をあおるものではない。気づくことだ。

問いを殺す宗教。質問を隠してはいけない。大切な疑問をもらっている。仏教2500年、真宗800年の歴史があるのでほとんどの問いに対する資料的答えがある。でもそれではいけない。ここは安心して迷って行く場にしたい。

この質問コーナーってドキッとすることが多い。自分もきっと隠しているんだ。わからないことを。わかってることにしている覆いをはがされるようだ。自分も他者の問いを聞くようにしたい。殺したくない。

【大乗の菩薩たち】
・正士 在家
・普賢:慈悲。お釈迦様の右に白象にのる。
・妙徳(文殊):智慧。お釈迦様の左に獅子にのる 
・慈氏(弥勒):思惟。一生補処の菩薩。兜率天で修行中。
「五十六億七千万
  弥勒菩薩はとしをへん
  まことの信心うるひとは
  このたびさとりをひらくべし」(『正像末和讃』正像末浄土和讃25【真宗聖典】502頁)

※東本願寺山門、長浜別院の釈迦三尊像はお釈迦様、弥勒と阿難がいる。『無量寿経』の会座を表している。

【普賢の十願】(『華厳経』善財童子の物語)
・供養諸仏:すべての仏に教えを説くことを要請して、涅槃に入るのを思いとどまらせる。=お聴聞。聞かせて下さい。この世に留まって教えを説いて下さい。
・開化衆生:慈悲の菩薩は人々をすくっていこうとするはたらき。
梵天勧請。お釈迦様が思いとどまって2500年続いている。七高僧始め、何万人、何百万人という人が紡いできた。
大乗仏教は、「聞かせてください」から始まる。
法然上人も南無阿弥陀仏がわたしのすくいだと気がついた。それを「聞かせてください」というひとがいたから伝わっていった。人間の問いがあって初めて教えがある。聖教や経典はいかなるひとが問いを出して説かれたのかということを読む。
『無量寿経』は南無阿弥陀仏でどうやってもすくわれないわたしたちがどうやってすくわれるのかという問いがある。
経典には問いがある。必ずある。そこから教えが生まれる。
・説聴一如 話すものと聞くものがひとつに溶け合っていく。わたしが聞くということがみんなを目覚ましてゆく。
 清沢満之 自分の心の救済を突き詰めていったが人を教化するということに疎いという批判があるが、道を求めていったことが周りをすくわなかったかというとそうじゃない。ものすごくたくさんのひとが続いていった。大谷派の系譜は影響されている。
 本当のことをしりたいということは周りの人を目覚ましてゆく。聞いているみなさんが大乗の流れに加わっていると言うことなんですよ。開化衆生なんですよ。
 僕らはだれから南無阿弥陀仏を聞きましたか?迷っている凡夫の誰かから聞いたでしょう。わたしが称えた南無阿弥陀仏は称えた瞬間にわたしの南無阿弥陀仏ではないのです。
 「わたしがすてた南無阿弥陀仏を喜んでいるものがおるぞ」

聞く事が他人ごとじゃない。自分の行為というだけでもないと知らされる。衝撃。
難しいと思っていた真宗聖典は、開いてみたらそうでもなかった。それは学問的な難しさではなくて人が書いたものだから、書きたいことがあるんだと思って読んだら読めるのだということに最近気がついた。書きたいという気持ちは時を超えて自分も感じることが出来る。これがずっと人から人へ伝えられてきたのもその書きたいことを読んだ人がそれに応えて伝えたからだろう。そう思うと自分の手元で読めることの重みがずっしりくる。
質問コーナーもそうだが、自分は一緒にお聴聞する人に教えてもらうことばかりだ。その人の話を聞くことや姿を見ることで気がつく。講師のお話はもちろん。
時に、そうやって気づいたとかいうことがひどいことではないかと思うこともあるのだ。本当に悩み苦しむ人の姿に教えられることがある。でも、今生きている自分は目の前のそのひとの背中に手を置くことの方が先ではないかという思いがすることもある。教えられたことを自分の中で消化する前に。無力な自分でしかないけれど、そうすることがいいことなのかどうかわからない。無力だからわからない。手を置きたいと思う自分の思いだって勝手かもしれないのだ。支えるとは言わない。できないから。あなたの隣で聞いているよということしかできない。悲しみを同じようにわかるとはいえないから。

説聴一如。話す人と聞く人が溶け合う世界。自分は善友の話を聞くのだ。

 

◆『無量寿経』を読む ZOOM講座法話メモ

 

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