如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第四回(瓜生崇師)

2021年4月3日(土) 開催
『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第四回 瓜生崇師
八相成道について

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【質問コーナー】
・娑婆世界と平等の浄土とは違うと思っていましたが・・・娑婆と浄土の境界がなく善悪の境界がないのでしょうか?
わたしが今居る世界が本当の世界で浄土がどこかにある世界と思っている。
宇宙はなにも区別していないが区別しているのはわたし。この世界はわたしが分別で作っている。善悪に分ける世界。わたしひとりの世界。
覚りの世界がなければ輪廻の世界もない。逆もしかり。(龍樹)
一切平等のはたらき=光 を見ないようにしている。自我の殻を作っている。


「仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖  屈まり伸ぶる虫なり  の循環するがごとく、蚕繭  蚕衣なり  の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締  結びて解けず  られて、倒・不浄なり。」(『往生論註』巻上【註釈版七祖篇】57頁)


蚕は自力で繭から出てくることが出来ない。この分別でいっぱいのこの世界が愛おしくてたまらない。目が開けられない。だから阿弥陀さんはわたしを南無阿弥陀仏と呼ぶのです。耳は閉じられないから。言葉の迷いの中にいるので、自らが言葉という迷いそのものになってわたしたちを呼ぶのです。

蚕の例えのところは改めて七祖篇で見てみた。自分で破れないということを改めて聞いた。お話聞いて南無阿弥陀仏に貫かれるというのは外から入ってくる感じだなあ。

 

・四苦八苦の「生苦」がわかりません。具体的にわかりませんでした。
産道を通る苦しみと書いてあるものもあるが、老・病・死の苦しみを背負ったということ。生まれたからその苦しみがある。産まれたいと思って産まれた人はいない。

これは自分も聞き始めの時、ちょっとわからなかった。うーん生まれちゃったもんな・・・と思っていたが、よく考えたら生きているから苦しいということなんだよな。でも、今生きている事に関して、生まれるところまで遡って生まれてこなければよかった思うにしては、年を取り過ぎたのかもしれないとふと思った。生まれてこなければよかったと思うくらいなら、自らの命を終わらせる方が早いからだろう。

 

・上人、聖人の違いはあるのか?
浄土宗は法然上人という。親鸞上人という。
浄土真宗は親鸞聖人と書く。宗祖だから。
本願寺派は法然聖人と最近書く。親鸞聖人が聖人といわれたから。

 

【説聴一如(前回の復習)】
聞いているひとが、お釈迦様と同じお徳を備えているという。
聞いているひとが、お釈迦様と同じはたらきをしている。
聞いてきたひとたちが、自分の苦しみ、迷いを何とかしようと真実を求めていく姿が、みんなを真実に目覚ませる姿。
昔は南無阿弥陀仏のすくいがわかった気持ちになったこともあったが、そのあとずっと親鸞聖人の教えを何十年も聞いてきたら、またわからなくなってきた。右往左往して居る姿から仏教に入られる人がいるということもわかってきた。
『正像末和讃』愚禿悲歎述懐和讃で仏智を信じられない自分に泣かれているのではないか。
『晩年の親鸞』お話に出てきた本

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本願に背を向けて逃げる自分と深い自分の迷いに気がついたときに、阿弥陀さんの本願の底知れなさにも気がつく。これは一緒のこと。最後に親鸞聖人は迷いに迷われたのではないかそれをわたしたちは見せてもらっているのではないか。

親鸞聖人も迷われていたというのは、そうかなと思う。人間だから。少なくともこんなにすくいを求められたというのはそれだけ苦しみが深かったからではないかと妄想する。

 

【八相成道】
お釈迦様の描写が、お釈迦様のお話を聞いている人の姿といわれる。解釈がいくつかある。
①    出世本懐経といわれ、これを説くために迷いの世界に出られた(『法華経』も)
 今まで説いたことが全部入っている。生まれて亡くなるまでの教えが全部収まっていることがエピソードとして書かれている。
②    ここでお話を聞いている人たちは同じ徳とはたらきをもっている(説聴一如)ことを表している。稲城和上が聖典セミナーで紹介している。
  後ほど阿難が「清らかな鏡にあなたの姿が表裏に映っているようだ」というところにつながる。
どっちもあると思う。どちらかというと②が強いかと思う。

・菩薩が修行して兜率天で諸仏に教えを説いて、迷いの世界に生まれて覚りを開く。もう流転輪廻はしない。一生補処。
・右の脇から生まれる 男らしさの表現あり。
・七歩歩く 六道(天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄)を越える
      わたしたちは常に生まれて常に死んでいる。心が六道をめぐる。
      なぜ不安と貪りの中で生きなければならないのか。
わたしがわたしをみたときには、見ている方がわたしになる。必ずわたしが生まれる。
どうにもならないものを越える。迷い続けるわたしが原因だと気がつく。
・敬うと神格化
仏伝も後記になるとそうなる。親鸞聖人に対してもそうしてしまうわたしたち。
親鸞聖人が疑う罪に泣かれる和讃を見ると、疑いをもたれていたということがあったとおもう。親鸞聖人に疑いがあったなら都合が悪いというのはどうだろうか。
・四門出遊→出家→苦行→沐浴(沙門の禁止事項)→スジャータに乳粥をもらう(もっとだめ)→瞑想→悪魔(自分の心)が出てくる

 

中道に気がつかれた釈尊がすごいと思うのだ。お釈迦様の覚り、中道。

 

・最近、仏教の教えが自分の思いを満たすことで説きかたで終わることが多い。お浄土で会いたい人に会える。安心する、満足する、満たされるんですよと。仏教による癒しとかね。そういう説き方をするのがダメだというわけではない。なぜそう説かれるか世親と曇鸞大師は考察されているがここでは触れない。でもそれで終わってはいけない。


「真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失す。」(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】324頁)


真実と方便の境目を忘れてしまったならば、仏教の本当のすくいはわからないといわれる。仏教のすくいは厳しいものだ。愛おしく思うものが奪い取られるのが仏教のすくい。これは恐ろしいことだ。自分が愛するこの世界が迷いの世界で、あなたが抱きしめてるだけなんだと知らされる。捨てられない。真宗のお話を聞いても、苦しみの元を捨てられない自分。われわれが仏道を求めるとき、分別によってすくわれていきたいという思いは悪魔。
こういうことをいうのも自分の正しさに迷っているんだと自分で思う。
お釈迦様は覚ったあとも分別から解放されていたのかというと、仏伝を読むとそうでないことが出てくる。悪魔も何回も出てくる。仏伝がそのまま正しいのかというと問題もあるが、初期仏教ではお釈迦様が自分の中に少し残った分別の心に苦しまれたところがある。

 

10ヶ月前の講座を聞き直して、このときから真仮をずっと言われているのを改めて気がついた。やっぱりふーんと思って聞いているだけだったなあ。こうやって真宗聖典開いたらまた思うことがちがうのだ。まあ見逃し配信で一時停止して聞こえてきた言葉で必死にどこなんか探すのだけど。
自分は方便の話が入ってこない。おとぎ話に聞えることは受け入れられないタイプなのだ。これはタイプだからそうじゃない人もいるのでなんともいえない。最初に聞いた頃から思っているのだけど、ほっこりほのぼのすることなんて仏教にはないって感じている(あくまでも自分は)。安心して絶望してまたそれがすくいになるみたいな構造を思う。これ、中道か。両極端しかいけない自分だけど、本当のすくいはまんなかなんかな。まんなかなあ。うーん。まんなかっていったらいけない。絶対無と絶対有。対象、相対化してはいけない。から言葉で言うことの限界。という自分メモ。

 

・覚りは、迷いの世界から真如の世界に目覚めるだけでなく、目覚めたものが迷いの世界に戻らずにはおれないというのが非常に大きなテーマになっている。
これから大事なことが説かれる。

 

今回の講義は、底に親鸞聖人も迷って行かれた、自分もまた迷っている人間であるという善友の話を聞いたと感じる。他人の心や本当の想いというものは分かるわけがないと思っている。でも、隣の繭の中で別の世界を持っている人が中で苦しんでいるのをなんとなく、存在をなんとなく感じることはできる。他者の苦しみを感じたら、自分もそうであると思い知らされ、そしてそれは気がついたその人だけではなくて、こころの数だけあるじゃないかと気づきの世界が広がっていく。お聖教を読むことでそういうことができるのかなと最近思う。

 

◆『無量寿経』を読む

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