如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第五回(瓜生崇師)

2021年5月4日 開催
『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第五回 瓜生崇師
梵天勧請について

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質問コーナー】
・南無阿弥陀仏のすくいは他力本願といわれていますが、条件があるような気がしました。(中略)努力を重ねて悟りの境地に達しなければ南無阿弥陀仏のすくいの境地に入ったことにならないような印象を受けました。仏教でいうすくいは完成(成仏)することなのでしょうか。もし仏教の勉強の途中で死ぬことになった場合、不退転の段階まで達していないと地獄行きになってしまうのでしょうか。

お説教を聞いたときに条件があるように感じたのはその通り。無条件だったら、聞きもしないし語りもしない、ただの気休めだ。この方は真面目にしっかりと聞いていらっしゃるということです。厳しい説き方を聞くことが少なくなった。昔の先生は死ぬ気で聞きなさいとか、一番前で正座して聞きなさいとかいう感じがあった。正座して聞こうと懸命に聞こうと往生のなんのたしにもならない。どれだけがんばって聞いたかなんてすてものです。そういうところを説かなければ分からないわたしの姿がある。すべてのものをすくうということをわからせるために条件を課しているようにおもうところがあるのはたしか。われわれはそう簡単に無条件を受け入れられない。どうしたどうしたらの気持ちは消えない。そうおもったら、その思いに向き合ってみたらいい。
ただ答えをもらって座るのではない。しっかりお話を聞いている証拠である。大事にして聞かれたらいい。
求めているときは自助の努力だと思ってそれに酔って勘違いする。振り返ると、そういうことも起こされていること。安心満足したいというのは本当のすくいではない。
死んだら地獄に行くと親鸞聖人は書かれていないが、迷いの輪廻にいるというのはあるが、そのなかに地獄はある。信心をいただいたらお浄土に往って、そうじゃなかったら迷いの世界に行くというそんな単純な話ではないと思う。如来の願いを拒絶し続け流転輪廻するわたしがいるから南無阿弥陀仏が永遠に響くという。すくわれる方にわたしが入っていきたいと思うがすくわれないわたしこそがすくいの証になっていく。真宗の教えはひとつになっていく。同時に成り立つ。
「柿羊羹の中身は皆柿羊羹」(深川倫雄和上)
南無阿弥陀仏のルーツをたどったらそこに苦しみ悩んでいるわたしがいる

「如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまいて
大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』正像末浄土和讃37【真宗聖典】503頁)

これ、昨日読み終わった宗教哲学入門で絶対無のところを思う。すごい。この展開。今ようやく柿羊羹の中は柿羊羹が刺さった。刺さったぞ。今やっと自分に刺さったわ。

・煩悩即菩提とは
煩悩によってしかわたしたちはお話を聞けないということはある。

・三界とは?
無色界 色界 欲界  (「自分」は残る)
天上界は三つが混在、人、修羅、餓鬼、畜生、地獄は欲界。

【梵天勧請】
梵天がお釈迦様のところに行って教えを説いて下さいというシーン。
お釈迦様自身は悟りのことをいわなかった。

【ミリンダ王の問い】
ナーガセーナはどれをもってナーガセーナなのか。
わたしというものはさまざまな物質が仮により集まっているもの。

・縁起=わたしがわたしとおもっているものはどこにもいない。わたしは宇宙そのものである。無自性空。

わたしたちは心と言葉で迷っている。自分にこだわって迷っていくわたしが本当はなかったということに目覚めるのは不可能。それがないと生きていけない。

お釈迦様は、わたしの悟りを説いても誰も分からないと「苦しみ」が出た。
自分が救われればいいというのは本当の悟りではない。説いても誰も分からないということを思うのは、本当の悟りではないということを暗示している。

お釈迦様は宇宙全体、すべてのものと自分が無関係ではないと気がついた。
無我→我は一切である。
すべての生きとし生けるものが自分のひとり子のように思える。
『わたしひとりの目覚めはありえない』
本当に目覚めたら

俺の人生はこれでいいんだろうかという思い、聞きたいという思いが梵天に象徴されている。われわれの聞きたいという思いが、如来を涅槃に留まらせないんですよ。
衆生と如来はふたつのものがひとつになってはじめて本当の目覚めになる。
これが大乗仏教。
わたしたちが如来と共に目覚めていく、みんなが共に目覚めて、すくわれていくのが本当のすくいなんだ。
十八願、二十二願で説かれることをまたやります。

巍訳の大無量寿経にだけ載っている。他の無量寿経には載っていない。これをわざわざいれている巍訳を親鸞聖人は大事にされた理由があると思う。

自分はいつもひとりで聞いていると思っている。ひとりのすくいではいけないと気がつくことって自分にあるのだろうか。たまに隣の世界で苦しい人がいるんだという思いになることがある。たまに、自分の他にもこうやって苦しんでいる人がいるのが不思議なことがある。どうして一緒なんだろう。
聞きたいという思いが、わたしから出て、梵天になって、聞きたいってお釈迦様にお願いして、そういうことが今あるってことがすごいな。聞いてるいまここに如来を涅槃に留まらせない力。何回聞いても自分がそのなかに、気がついたら巻き込まれて吸い上げられるようでびっくりする。

 

◆真如の世界のことはこれを読んだらどうだろう

luhana-enigma.hatenablog.com

 

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