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『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第六回 (瓜生崇師)

2021年6月11日 開催

『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第六回 瓜生崇師

三乗を顕示して、この中下において滅度を現ずれども

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【質問コーナー】

★…なにが善か悪かわからないものが「私は悪そのものだ」的なことを言うのは矛盾していないのでしょうか?

「○○するのは悪です」というように具体的に教えられているところがある。もう一つは、

・因果の道理 悪因苦果(自分が苦しむ) 善因楽果(自分が楽になる) 自因自果

       悪因悪果         善因善果

 突き詰めていくと、何が悪で善か分からないから、悪因苦果のような表現をする。よく考えると、これだけでもわからなくなってくる。これはかなり自己都合の話になる。わたしが満たされたら善なら、自分がいい思いをしたいからいいことをするというのは話がおかしい。

 お釈迦様は、いいことをするのはいいが、自分が満たされるためにするのはよくないとおっしゃっている。善悪を決めているのは誰か?それはわたし。だれかのために善をしたいという気持ちも、自分が善人になりたいというきもちだろ?という視点。わたしを中心に物事を分別していく姿。

 在家には善に励みなさいと言う。

 親鸞聖人が嘆き悲しんでいる「悪」は、わたしが真如に背いて、悪を恐れて善を求めるわが身の有様。もっと深いところにある悪。

・阿闍世の回心 親鸞聖人は『教行信証』の信巻に引用している。『涅槃経』より。

 父殺しをして地獄に落ちることを恐れて苦しむ阿闍世。慰める大臣。

 SNSに似ている。落込んだことや失敗を書き込んだら、誰もが気休めの慰めを書き込んでくれる。「だれでもやってるよ」

 耆婆だけが、「あなたはすくわれる。慚愧がある。(自分がやったことを悔いて恥じている)。お釈迦様に会ったらいい。」

 自分がやっていることがいいことかわるいことかわからない。戦争中に生まれたら何をしていたかわからない。環境・立場が変わればいいこととわるいことも変わることがある。

(善悪不二)

 地獄に落ちたくない父殺しの阿闍世は「他の衆生がすくわれるのであれば、無間地獄で永遠の苦しみを受けてもいい」という。ここで悪因悪果が崩れる。仏教のすくいは善悪を超えていく。

真如に背き続けるわたしがいるからこそ、南無阿弥陀仏が宇宙に響き続けるのだと親鸞聖人がおっしゃっている。それがわたし自身のすくいになる。永遠にすくわれないわたしがいないと、絶対すくうという本願はなかった。溶け合ってひとつになる。

 

「かの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。」(『観経疏』散善義【註釈版七祖篇】457頁)

 

 これがすくいの証になる。真如の世界から背を向けているのは自分。「だから」わたしがすくわれるのという話ではないよね。この時点で菩薩として目覚めるということなのだろうな。すべての人が救われて欲しい。自分だけでは意味がないと。ここは何度でも聞きたい。

 

【続き】

・説聴一如 聞きたい人がいなければ、ブッダの教えは説かれなかった。お話を聞いている人はお釈迦様と同じはたらきをしている。

・二乗 声聞:師匠の教えで覚る 縁覚:独学で覚る(ひとりがすくわれる)空を覚ってない

三乗 二乗に 菩薩:ひとをすくうことでじぶんがすくわれていく が加わる

・空:わたしが思っているわたしはいない。わたしの心は常に変わっている。たまたまいろんな物質が寄り集まってできているわたし。

・無相:すがたがない 無願:求めるものがない 

・声聞や縁覚を導くためにひとまず世を去る姿を示す(死ぬということ)のであるが、菩薩自身としては空を覚っていると書いてある。空ではわたしの命は生まれもしないし滅びもしない。なぜ死ぬ…?

・生死 わたしは生まれ死んでいく固定的なわたしがいると思う迷いの姿。仏さまが生死を繰り返すのはなぜ?

  • 分断生死 自分という主体があると思う迷いを繰り返すわれわれ
  • 変易生死 覚ったものの生死。分断生死をすくうため。菩薩行。

・初期の無量寿経には八相成道や空無相無願三昧は出てこない。

 わたしがすくわれることはみんなが救われなければならないが、初期は一見空がないように見える。菩薩道ではない。なので批判があったのではないかといわれている。わたしが死んで浄土に生まれてまたみんなをすくいにこなければ大乗のすくいにならない(二十二願)。

・お釈迦様は梵天勧請により、迷いの世界に居ることを選んだ。生死を出るはずなのに、生死の世界に留まった。みんなと同じく自分も目覚めていくため=変易生死

 

【お釈迦様にど叱られる阿難】大パリニッパーナ経 『南伝涅槃経』ブッダ最後の旅

・病気から復活したお釈迦様に、「死ぬ前に大事なことを弟子に説いてないから涅槃に入らなかったんですね」→「ブッダの教えに握りこぶしはない!(隠しているものはない)」

・お釈迦様は永遠に生き続けることが出来るといっているのに、阿難はぼーっとして返事をしなかった(何回か)。

→悪魔「お釈迦様の教えが伝わってみんながすくわれなければ涅槃に入らないっていわれましたよね。もうお弟子は覚りましたよね。もう涅槃にはいっていいんじゃない?」

 お釈迦様「3ヶ月したら涅槃にはいる。(と約束)」(安居が終わるころ)

→お釈迦様の頭にあったのは、最後の一人、阿難が覚ってない。

 お釈迦様が死ぬことを告げたら阿難が慌てる。「死なないって言ってたじゃないですか!」

→「それを信じるのか。それはお前の過失である!(何回も言う)わたしが何度もブッダはいつまでも生きることができると言ってもいつまでも生きて下さいっていわなかったじゃないか!!!(ど叱られる)」

→すべてのものは滅びるといっていたよな。これからも怠ることなく修行しなさい。

お釈迦様は矛盾するようなことを言っている。阿難はお釈迦様が亡くなった後に阿羅漢の悟りを開く。

お釈迦様って、阿難をすくうために三ヶ月後に涅槃に入ったのではないか。お釈迦様の側に居た阿難は同じことを聞いて聞き慣れ雀になっていたといわれている。だから最後まで悟りを開けなかった。「いつでも聞ける」。いつまでも聞けると思ってぼやっときいているじゃないですか。みんなすくわるという気休めみたいなことをきいて生きてないか。そういうわれわれに向けられたメッセージではないか。

・後期の無量寿経には浄土に往ってまた迷いの世界に戻ってくるんだ、お釈迦様の入滅は、他の人を救うために見せた姿だと大乗仏教のすくいが加わっていく。

 

大乗の菩薩は、他の人をすくっていくというのだけど、お釈迦様が阿難のために涅槃に入るというのは、そのときとしてはそう言うシチュエーションがあったと思うけれど、実は「わたし」のためなのかもしれない。涅槃に入るということは、やはり手の届かない存在になると言うこと。そうなって初めてすくいがどういうことなのかというのを考え始める。自分のこととなる。涅槃に入るその姿がはたらき。悟りを開けなかった、聞き慣れ雀になっていた阿難。悟れない衆生代表でもあった阿難のため。すごく人間的な二人の関係を垣間見ることができるようだ。自分にも分かるその気持ち。

お釈迦様が涅槃に入られてからずっと考えてきた人たちによってお経が変わっていく。新しく紡がれていく。それはお釈迦様の言ったことが変えられていくのではなくて、どんどん深まっていく。自分がすくわれるということはどういうことなのか。その渦の中に自分も入っていくような気持ちになる。ちゃんと読めているのか、考えているのか、その伝えたい気持ちを聞いているのか、自分。

菩薩ってすごい。もしかしたら自分の世界でも、自分以外の生きとし生けるものすべてもうすでに菩薩で、自分が一番最後なのかもしれない。このいま自分が認識している世界で、覚ってないの自分だけ。この自分の世界の中にある自分以外のものが菩薩。そんな世界かもしれないじゃないか。だとしたら、だとしたら…。絶対すくわれない自分が南無阿弥陀仏の中にいて…。自分の周りはすでにはたらきで満ち満ちている。柿羊羹の中身は柿羊羹。ぐるぐる。

 

◆『無量寿経』を読む

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