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『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第七回(瓜生崇師)

2021年7月3日 開催

『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第七回 (瓜生崇師)
諸仏とはなにか

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【質問コーナー】
・声聞、縁覚は自利の覚りで、阿羅漢は自利利他を超えた覚り、成仏なのでしょうか?仏は、菩薩として、私に働きかけるのでしょうか?
縁覚=無師独覚
曇鸞は「わかった」ところにいることを七地沈空といった。これは全部空なんだとそこに腰を落ち着けてしまって止まってしまう。「親鸞聖人のいわれるすくいはこうなんだ」と思ってしまう。
→自利利他円満の阿弥陀仏のすくいによって破られる。「一切皆空」=わたしは宇宙そのもの。
梵我一如=「永遠の主体とわたしが一緒だと目覚めていく」→仏教では主体がないのでこれとはちがう。
阿羅漢は大乗仏教で言う阿羅漢の覚りはひとりで覚ることだが本来の仏教ではほんとうの覚り。場合によって単語の意味が違う。
涅槃=空 昨日のわたしは今のわたしではない。わたしは関係性であって、あるようでない。もともとなかったものがなかったと知らされる。心と言葉で表現出来ない。空はこういうことだと思うこと、語ることが迷いの中で分別している。どこにもいきようがない。
滅土=わたしがいるとおもっている姿がなくなる
言葉と心で迷っているが、言葉と心でしか理解出来ない。言葉と心の世界に目覚める(鉢の中の金魚→広い世界を見るということは、死ぬということ。)龍樹は堂々巡りをずっと書いていく。すくうものもすくわれる対象もない。いくらいわれて迷いの中で苦しむ。あるんでもなければないんでもないといわれてもわからない。
迷いの存在である自分は、俺の考えた最強の阿弥陀さましか知らない。見てなんとか感じようとしている自分が如来の本願に背いている姿。一生懸命理解して納得しようとしていること。空をはねつけている。人には分からないけど、「ああでもなければこうでもない」という言い方でしかいえない。

『龍樹』読まなくちゃ。積本あるのだ…。

大峯顯先生は「宇宙」と表現する。

輪廻は涅槃。本当の世界を迷いにしているのはわたし。本当の空は輪廻も涅槃もない。迷う私があるからそれを目覚ます真如のはたらきも存在しない。分別している。
証知生死即涅槃
この目覚めがすなわち真如の世界なんだ。われわれの認識を超えている。

「この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず、しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」(『唯心鈔文意』【真宗聖典】554頁)

分別でしか、言葉と心でしか分からない自分のために法藏菩薩として現われてくれた。すごくわかる。こういうストーリーでしか自分は理解出来ない。だから、これが「おとぎ話」だという風に思わない。こういう方法しかないから。これでしか分からない。報身。でも自分の中にはなんか分かってんじゃないかという気持ち。変なの。

右往左往して仏法を聞いている自分はここに居る。
わたしは目覚められないものと知る=真如のはたらきが届いている。わたしを目覚めさせようとしていることを知る(法蔵の物語、私から架かる橋はない。真実から架かる橋がある)
・法藏菩薩 真如の世界が真如の世界を捨てて言葉の世界に降りてきた。
 すごく一生懸命考えたけど、考えれば考えるほどわからなくなっていく。でも考えることをやめることはできない。真如が姿を変えて迷いの世界にくる。方便法身。

【続き】
・十七願(諸仏称名の願)で大宇宙の諸々の仏方に我が名を称えてくれと要請する。宇宙の数限りない仏さまが法藏菩薩を褒め称えていく。南無阿弥陀仏のすばらしさは仏さまではないとわからない。
 南無阿弥陀仏を称えるのは本当は諸仏の仕事。お釈迦様も阿弥陀仏の願いによって南無阿弥陀仏を称える。そしてわたしたちに伝えてくれた。この南無阿弥陀仏が覚ってない凡夫に伝わる。まさにわれわれが南無阿弥陀仏を称えている。『無量寿経』には南無阿弥陀仏がでてこない。わたしたちは迷いの言葉の世界で生きている。真如そのものが迷いの言葉できてくれた。わたしたちは、南無阿弥陀仏を称えることで諸仏のはたらきをしている。法藏の願いに応えてる。南無阿弥陀仏を称え広めた迷った人たちが諸仏と仰がれる。互いに目覚ましあっていく。仏のはたらきをしている。

・間違いないものが欲しい。間違いがないことを聞きたい。だから権威が欲しい。本当かどうか聞きたい!という人たちの歩み。いまここに一人として覚った人がいないのに、覚りの話をしている。不思議だね。

「まさに知るべし、謗りをなすもまたこれ結縁なり。われもし道を得ば、願はくはかれを引摂せん。かれもし道を得ば、願はくはわれを引摂せよ。すなはち菩提に至るまで、たがひに師弟とならん。」(『往生要集』巻下【註釈版七祖篇】1178頁)

これ、瓜生師が現代語訳でおっしゃっていたのだけど、探し当てた!いいなあ。遺弟ってこうやってきたのかと。マクロ的にもミクロ的にも。試行錯誤してきた源信僧都の言葉。書くのは野暮なので書かないが、ここの瓜生師の話をすること、聞いてくれる人の話がいい。
第六回で「最後にすくわれるのは自分じゃないのか。自分以外の衆生は自分を目覚めさせにきた菩薩じゃないのか」と思ったのだけど、この諸仏の話を聞くとますますそう感じる不思議。でも、嫌いな人は嫌いだ。

「為諸庶類、作不請之友。」(『無量寿経』【真宗聖典】6頁)
→不請の友

これ、自分が人間関係的にだめだなと思う時に「とりわけ」出来ないと思うところ。すごく分別の身でいうけど。むしろ現実でみたことがない。自分でできるっていう人はいるかもしれないけど、多分それは自分が思っているだけだと思う。

「三趣を杜ぎて、善門を開く。」(地獄、餓鬼、畜生への道を閉ざし、天人の世界への門を開く。)
・涅槃は「わたしが大事にしているものが本当はなかった」というもの。わたしが完全消滅する世界。われわれは本能的に拒絶する。わたしはこわい。そんなことよりも天国の世界に生まれるというのがいいと思う。在家にはいいところに生まれるように説いた。=生天思想
われわれにわかるように本願のはたらきによって説かれたもの。
きちんと聞いていったら、会いたい人に会える世界がお浄土というのは違うと気がつく。どうしてこう説かれていくのかを疑問に思う。親鸞聖人は、真仮を分けられていた。

「もろもろの衆生において、視わすこと自己のごとし。」
説くものと聞くものが一緒になっている、溶け合う世界。念佛を伝える人、称える人。これがお釈迦様のお話を、無量寿経を聞いている人たちの世界。

まさにこの講座を聞いている自分もそうなっていくような気がする。すごく引き込まれる。集まった人たちの一人が自分。今聞いている。最初法話を聞き始めた時に、「どういう意味なんだろう」とその話の意味を知りたくて聞いていた。でもいろんなお話を聞くうちに、自分がここで聞くことがどういうことかという視点をもたらされることがある。自分が自分でないものを理解することから、自分が自分を見る視点にパーンと変えられるところ。諸仏のお話はまさにそういうところだといつも思う。

次に入る阿難とお釈迦様のやりとりは3回も親鸞聖人が訳を出している。阿難が気づいたこととは…。

 

◆『無量寿経』を読む ZOOM講座

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