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なぜ「名」がすくいなのか(2)浄土真宗Live! 瓜生崇師

2022年2月10日(木)
なぜ「名」がすくいなのか(2)浄土真宗Live! 瓜生崇師

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めちゃくちゃサムネがかわいい!!!!(心の叫び)

【前回の復習】
わたしというものはどこにも存在しない。関係性の上に成り立っている。言葉によって世界を分別し迷っている。
わたしはただの名前。仮名にすぎない。言葉によって仮に名付けられた自分に執着している。
・覚り 言葉を離れた世界 無分別 この世界は関係性によって成り立っている一切平等の世界
・無分別後得智 覚ったものは、分別に苦しむ衆生を覚らしめようというはたらきになる。
→名(言葉)によって目覚めさせようとする。言葉でしかわからないから。
どれだけ言葉を重ねても真如の世界を表しようがない。永遠におわらない仏教の営み。経典を重ね、論を重ね、釈を重ねてきたが説ききることが出来ない。わたしを目覚めさせるはたらきは兆載永劫、永遠に続く。
※『八千頌般若経』にもあり

 

【『十住毘婆沙論』龍樹】
「「もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、
 これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。
 もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。
 もし二乗に堕すれば、すなはち大怖畏となす。
 地獄の中に堕するも、畢竟じて仏に至ることを得。
 もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。…」と(清浄毘尼方広経にある)
 (中略)
このゆゑに、もし諸仏の諸説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。」

(『十住毘婆沙論』【註釈版七祖篇】3~4頁)
 
・覚りの階梯の41段から50段目までを説いた『華厳経』十地品の解説。
・易行品を求める気持ち 地獄に落ちたくない!覚りをなくす恐怖。気をつけて回避出来るものではない。覚りを求めたいという気持ちはあっという間に吹き飛んでしまう。

声聞(師匠に教えてもらって覚る)、辟支仏(縁覚、独覚、一人で覚る)に墜ちることを恐れる。菩薩の道はあらゆる衆生をすくっていく歩みはものすごく時間がかかる。「わたしが」という気持ちを捨てきれないで覚ると、実体がないものをすくう必要がないというところで身動きがとれなくなり、本当の覚りの縁、手がかりを完全に失う。一生懸命やって絶対だめなところに行ってしまう恐怖で龍樹に対してどうすればいいのか涙ながらに聞いている。

これは、ひょっとして龍樹自身の「どうしたらどうしたら」だったのかな。

菩薩=闡提(『楞伽経』より) あらゆる衆生をすくうために自分がすくわれない。それに絶えられずに目を瞑ってしまう。
真面目に求めてすくわれたいという思い出、身動きが取れなくなってゆく。懸命に求めても、不真面目でも墜ちる。人間が真如を求める限界。

 

「答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもってのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。(中略)もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。」(『十住毘婆沙論』【註釈版七祖篇】4~5頁)

 

気楽に求めるなんてねーなという感じ。自分はすごく必死なのかどうかわからないけど、自分のペースなんだが、それも龍樹に叱られるレベルだな。他人から見て厳しいかどうかじゃない話だとも思う。頭に火がついて理性でヤバいとか思う前に必死になるのは自分だけ。思いを挟むこともない必死さ。自分が必死にならなければということ。

途中出てくる明恵についてはこれ読んでおいてよかった。

luhana-enigma.hatenablog.com

 

「もし人疾く不退転地に至らんとほっせば、
 苦行新をもつて、執持して名号を称すべしと。」
(『十住毘婆沙論』【註釈版七祖篇】6頁)

 

10人の仏さまの名前を出している。

 

「阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。」
(『十住毘婆沙論』【註釈版七祖篇】15頁)

 

これ本当にお西の註釈版七祖篇、いい。

どうしてもどうにもならんものにはたらきかける「名」。

龍樹の著書かどうかというと疑義があるが、確実に龍樹の思想が入っていると思う。突き詰めていったならば、真如のはたらきは名前を持ってはたらいているということになると思う。空の教えが迷いの象徴である名になってわたしにはたらきかけるという思想が、大乗仏教の早い段階から出てきた。

 

【曇鸞】
龍樹の問題に真正面から取り組んだ人。親鸞聖人が尊敬していた人(名前にいれてる)。
四論宗(龍樹『中論・十二文論・大智度論』提婆『百論』)を学んで『大集経』の注釈にはいる。
勉強をするために長生きをするために不老長寿の仙経を手に入れる。→菩提流支に唾棄され、『浄土論』(仮定)を渡される。

いつからだってよかったんだ。
年を取ってから『浄土論註』を書いた曇鸞に励まされる思いだという瓜生師。自分もそう思う。今、自分の時間の多分1/3以上は会社、1/3以上は睡眠、食事などの生物として生きるための時間になっている。残りの時間でしか自分は仏法を学べない。たしかに生活にある中から学ぶこともあるが、やはり自分としてはお聖教や本を読みたいのだ。そうなるとまあ、絶対的に時間が足りないよなと思い、足下を固めるつもりでこうやって法話メモを取る。今自分に出来るのはこれしかないかなと思いながら。

「いつか読もう」を「今読む」に変えた。部分的でもね。

 

【世親】
「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、
 安楽国に生ぜんと願ず。
 われ修多羅の真実功徳相によりて、
 願偈を徒来て総持し、仏教と相応せん。」
(『無量寿経優婆提舎願生偈』(【註釈版七祖篇】29頁)

 

釈尊に、阿弥陀さまの浄土に生まれたい。仏典に基づいた真如そのものであるとこれが仏教だとみんなに知らしめようと思う。
唯識をやっていた世親が…!?龍樹の空を突き詰めていった。瞑想によって業を断ち切る事を書いていたのに…。
いまのわれわれには驚きがない。答えが先になる。その根拠を偉い人の言葉で覚えたり論理づけられたらいいというものになってしまっている気がする。
曇鸞はびっくりしたと思う。おそらく翻訳ほやほや。
ただ、『浄土論』に書かれているのはきらびやかなわたしの欲望の延長の世界。世親がこの世界に生まれたいというのはどういうことなんだ?曇鸞は目を皿のようにして見て行った。それによって書かれたのが『浄土論註(無量寿経優婆提舎願生偈註)』。
また会える世界みたいな説き方をする仏教は本来の仏教と重ならない。ただのユートピアに読めてしまう。
曇鸞は最初に龍樹の『十住毘婆沙論』の難行道、易行道を引用する。これは曇鸞の苦しみ悩むところだったのだろう。

 

「(難行道について)
 一には外道の相善は菩薩の法を乱る。
(自分が地獄に落ちてもいいという菩薩としての歩みは結局は自分の幸せ、悦びの為)
 二には声聞は自利にして大慈悲を障ふ。
(菩薩からほど遠い存在。みんなを目覚ましたいのも結局は自分のすくいのため)
 三には無顧の悪人は他の勝徳を破る。
(善悪を知らない人が他の善を台無しにする)
 四には顛倒の善果はよく梵行を壊つ。
(顛倒はわたしが幸せになりたいことに善悪を利用していく。
善悪を迷いによって自分で分別している)
 五にはただこれ自力にして他力の持つなし。
(わたしがわたしがというところで求めていたらどうしようもない)」

 

・生きとし生けるものには実体がない。苦しむ人も迷っているのも縁起の中で成り立っているだけで、空であり、生まれることも死ぬこともない。もっというと、今まさに生まれ死んでいる。それなのに自分は自分に執着をしているのが迷い。なのに如何して天親菩薩は「願生」っていうの?という曇鸞自身の問い。自分で自分に質問している。
①    いわゆる迷いの生という意味。実体がないものを生死の迷いと表現している。
②    世親の言うのは本当は生死はない覚りの世界。一切皆空。本当に生まれるんじゃなくて仮に生まれるといったんだ。
じゃあ、なんでそんな言い方するのか?
穢土の仮名人:われわれは仮名人(実体はないのに関係性の中で仮に名付けられているもの)
浄土の仮名人:じゃあ浄土に生まれるのは誰なんだ?浄土に生まれるのも仮名。実体がないから。
ひとつでもなければ異なるものではない。因果への執着も迷い。親鸞聖人は、詳しくは龍樹の『中論』を読んでくれで終わっている。本当の覚りの世界からすると、浄土も穢土も一緒。名前がついた瞬間にすべて本当のものでなくなる。迷いの世界にいるわたしたちが仮に名付けたもの。迷いの世界があるから真如の世界がある。本当はそんな区別はなかったはずなのに。
『無量寿経』もそうだ。法藏菩薩は迷っている私がいるからいる。
こういうことをこの後曇鸞大師は展開していく。

 

【無生の生】
「この中に疑あり。疑ひていはく、「生」は有の本、衆累の元たり。生を棄てて生を願ず、生なんぞ尽くべきと。この疑を釈せんがために、ゆゑににかの浄土の荘厳功徳成就を観ず。かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざることを明かすなり。なにをもってこれをいふとならば、それ法性は清浄にして畢竟無生なり。生といふはこれ得生のひとの情なるのみ。生まことに無生なれば、生なんぞ尽くるところあらん。かの生を尽くさば、上は無為能為の身を失し、下は三空(空、無双、無願)不空の痼[廃なり。病なり]に酔ひなん。根敗永く亡じて、号び三千を振はす。」
(『浄土論註』巻下・解義分 観察体相章 生即無生【註釈版七祖篇】123・124頁)

真如に目覚めたものは無生であるが、すべてのものを目覚めさせるためには生を証さなくてはならない。
浄土が消滅するところだったら、われわれは終わってしまうじゃないか。浄土という閉じた世界にいることになる。浄土は固定されたものではない。迷いで生まれるのではない。あらゆる人を目覚めさせるはたらきとなって生まれるんだ。

これ、「生」も自分にわかるようになっているということか。それでしかわからんから。

 

【作心】
「「未証浄心の菩薩」とは、初地以上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩またよく身を現じて、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億の無仏の国土に仏事を施作すれども、かならず作心を須ゐて三昧にはいる。すなわちよく作心せざるにはあらず。作心をもつてのゆゑに名づけて未得浄心となす。この菩薩、願じて安楽浄土に生ずれば、すなはち阿弥陀仏を見たてまつる。阿弥陀仏を見たてまつる時、上地のもろもろの菩薩と畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩、婆藪槃頭菩薩(天親)の輩、かしこに生ぜんと願ずるは、まさにこれがためなるべきのみ。」
(『浄土論註』巻下・解義分 観察体相章 衆生世間 仏【註釈版七祖篇】132頁)

自分が頑張っても頑張らなくても覚れないわたしであった。覚ったと思ったらそこから動けなくなるわたしであった。どうやっても覚りに至る縁手がかりのないわたしに
迷いの言葉・名となって真如がはたらきかけてくるのは当然のことではないかと曇鸞はいう。

 

【七地沈空】
「菩薩、七地のうちにおいて大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時に、もし十方諸仏の神力の加勧を得ずは、すなはち滅度して二乗と異なることなからん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつれば、すなはちこの難なし。このゆゑにすべからく「畢竟じて平等なり」といふべし。また次に『無量寿経』(上)のなかに、阿弥陀如来の本願(第二十二願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て特本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国を遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無常正真の道を立せしめんをば除く。常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」と。」
(『浄土論註』巻下・解義分 観察体相章 衆生世間 仏【註釈版七祖篇】133・134頁)

龍樹や世親が浄土に生まれることを願ったのは、この七地沈空があるから。どうしても求める「人間」にとってのこの超えられない壁は、阿弥陀仏によってすくわれていくということだ。如何してもなんともならん自分がここにいる。それに真如は必ずはたらきかける。そのはたらきは、自分が迷う言葉となってくる。
自分の為に、言葉になってはたらきかけてきている。
自分はなんかわからないけど、ずっと法話を聞いている。今日のこのお話は、まさに自分にはたらきかけているのは言葉なんだと感じた。自分の中でのどうして?が解決されるのは言葉でしかない。論理が成立していかないと納得出来ない。そんな自分は説き尽くすことの出来ない真如の世界をすこしでもわかりたいと思っているのだ。だから聞いているのだ。そしてこれは自分のために説かれていることなのだとびっくりするのだ。今更ながら。

龍樹の阿弥陀仏への帰依の宣言があり、それについて書いた世親。そしてそれをさらに解説した曇鸞。曇鸞は最初の言葉を龍樹から引く。先人の言葉(真如ではないもの)だけを頼りにずっと考えてきた人たち。自分もそれを考え伝えてきた人によって今この話が聞けるのだ。伝えようとする気持ち、それを受ける自分。聞きたい、聞きたい。結局今聞いている。

 

【無明を破す】
「「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず。名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすならば、いはく、如来はこれ実相身なり、これ為物身なりと知らざればなり。」
(『浄土論註』巻下・解義分 起観生信章 名号破満 【註釈版七祖篇】103頁)
※「かの如来の名を称す」については、補註・5も読んだ。

実相身(真如の存在)が為物身(わたしに分かる姿)として南無阿弥陀仏となっている。
名前そのものが真如なんだ。南無阿弥陀仏は真如なんだ。
曇鸞は名によって迷う私に仏が名となってわたしを目覚ましにきたと感じていたと思う。そこに親鸞聖人は注目していく。

今回の長いお話、自分の中では浄土、涅槃、真如と穢土、輪廻、衆生は一つであるという一点、ひとつでもなければふたつでもない。点というのもおかしい。でもそれは南無阿弥陀仏だということを聞いた。
仮名。穢土の仮名と浄土の仮名。仮名は仮に名付けられたもの。招喚されるわたしは、「南無阿弥陀仏」と喚ばれている。真如は名となって自分の元に来た。「南無阿弥陀仏」と呼んでくれと。
阿弥陀仏も自分も南無阿弥陀仏
阿弥陀仏も衆生も南無阿弥陀仏

阿弥陀仏も自分もまわりのあのひともこのひとも衆生はみんな南無阿弥陀仏と呼ばれる、喚ばれる
浄土の仮名も南無阿弥陀仏?

ならば阿弥陀仏も自分もまわりのあのひともこのひとも衆生はみんな南無阿弥陀仏

ひとつでいて異ならないということではない
今称える南無阿弥陀仏だけ
時剋の極促

 

◆註釈版七祖篇 聖典

 

◆なぜ「名」がすくいなのか(1)

luhana-enigma.hatenablog.com