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『親鸞和讃』を読む「かならず煩悩のこほりとけ(2)」 瓜生崇師

2022年2月13日(土)19:30 真宗大谷派大津別院
『親鸞和讃』を読む ―かならず煩悩のこほりとけ(2)― 瓜生崇師

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【質問コーナー】
物忌みや祈願ができないことを縛られているように、不自由に感じる。

浄土真宗は昔から物忌みや祈願をせず、阿弥陀仏にむかえという教え。病気快癒や疫病退散を祈れないのが不自由と言っている。お寺さんだったらこういう質問されているだろう。
不自由じゃなくて、そういう神仏に祈願しなければならないことが不自由。
病気が悪くて健康が良いと言わない。不合格が悪くて合格が良いとは言わない。それが阿弥陀さま。
じゃあそういう教えを聞いて自分の人生のよしあしを祈願しなくて済むかというと、そうはいかない。仏の智慧をはねつけて生きている自分を知らされる。

報恩の念仏という表現をされているが、蓮如上人の信心正因称名報恩。親鸞聖人が書かれているのは一カ所だけ。蓮如上人は、これだと思って集中したのだろう。
「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」
(『教行信証』行巻 正信偈 龍樹章【真宗聖典】205頁)
当時の人が、お念仏を往生のための呪文のように誤解していたためにこういったのではないか。念仏を阿弥陀さまに差し出して取引していく、われわれの側の問題。勘違いしがち。お念仏は報謝行ではあるが、そこに留まるようなものではない。

ああ、そうだ。ここいつもひっかかる。法話によっては「報謝」をずっと推されるが、自分にはその感覚になる前に「ありがたいことです」の既定路線が目の前に出されて、ここわからないっていったらアウトみたいな気持ちにいつもなる。自分のペースで聞きたい。
素直にそうだなとおもうこともある。聞くというのは不思議。
質問者の方は、こうしたらいいですよというアドバイスがほしいのだろうか。自分はもう実家の初詣はずっと行っていない。家族的には「感じ悪い」といわれる。でもいかない。それが自分。ただそれだけ。

 

【今日の和讃】

無礙光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみづとなる
          (『高僧和讃』曇鸞讃19【真宗聖典】493頁)

無礙光:遮るもののない光。われわれの知る光は影が出来る。強い光では濃い影を作る。
神様を信じたらすくわれる→信じないものはすくわれない
    あらゆる生きとし生けるものを平等に貫く。分け隔てしない。
    不二の法門。
煩悩:欲、怒り、愚痴。
煩悩と覚りは本当は同じものなんだ。氷が溶けて水になるようなものなんだ。ひとつでもないけどふたつのものではないんだ。


【曇鸞大師】
5世紀後半に生まれ、出家後に龍樹の教えを学んでいた。
『中論』実体があるように思っている者は虚構である。すべては空。
分別が煩悩を満たしていく。自分中心にいいものをわるいものがある。
あるがままにみる お釈迦様の教えは「正見」 空
わたしたちは 分け隔てて 煩わされ 悩む
曇鸞はこういう学びを熱心にやっていた。
覚りの五十二位
正覚、等正覚、その下の十地。
七地沈空:声聞(わたし一人がすくわれてめざめる)、
三空不空 空、無相(あらゆるものに実体がない)、無願(あらゆる願いがない)
すべての人をすくうものになっていかなくなる。不完全になってしまう。
智慧(あらゆるものをありのままにみる)を得ると、すべてをすくう慈悲となる。
(自分の家族もとおくにいるしらないおっさんも一緒に思える。わたしと一切無関係なものはない。)→智慧と慈悲はワンセット
作心 三昧を求めていく。空や目覚めを求めているのに分別をいれていく。ありのままはいいことで、分別するのは悪いことだという新たな分別が生まれる。自分の分別から出たすくわれたいという思いがなければ覚りへの道はすすめない。それがすすむことを止めている。これがないと仏教は聞けない。すくわれたいという心は自分の煩悩。

曇鸞大師は声聞を大変問題にする。『浄土論註』には声聞という言葉が29個も出てくる。曇鸞大師は、おそらく自分のことを声聞だと思っていた。懸命にすくわれたいと思いきたが、結局自分がすくわれたいという作心でしかないと思われていたのではないか。どれだけあらゆる人と一緒にすくわれていきたいと口で言っても、自分ひとりが安心したいというものしかなくないかと悩んでいたのでは。
龍樹の『十住毘婆沙論』の易行品に、声聞に墜ちることを恐れ歎く人の言葉が出てくる。曇鸞大師はこれを見たときに、ご自分のことだと思われたのだろう。空についてずっとやってきたが、もっと易しい道はないですかと聞く人がいる。みんなすくわれたグループに入りたいやろ?そういうところに行きたい。頑張って道をもとめてここに陥ることを恐れるひとに、龍樹は叱咤激励するが、易行道を教えようという。

『大集経』を訳す前に病になる曇鸞は、不老長寿の仙経を手に入る。菩提流支にその行為を唾棄され、(きっと)『浄土論』を渡される。それを読んで欲望の延長のような世界に驚いただろう。「願生安楽国」。曇鸞大師はそこを懸命に見て行った。世親がいう五念門の讃嘆門に注目する。龍樹と一緒ではないかと。
この世界は無分別の世界なんだと書いてある。無分別の世界はわたしにはたらきかけてくる。
無分別→無分別後得智
『維摩経』高原の陸地に蓮華は生えない。泥の沼地でなければいけない。
蓮華を生やした泥はわたし。おれの求道心はどろどろなものだ。蓮華を生やしたのはその心だろうと。
『浄土論』のあの清らかな世界は、わたしの心というものが、煩悩いっぱいのわたしがあるからこそ、ああいう浄土の姿が現われたんじゃないかと考えた。
なぜ南無阿弥陀仏が出来たのか。なぜ本願が立てられたのか。


「如来の作願をたずぬれば
  苦悩の有情をすてずして
  回向を首としたまいて
  大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』37【真宗聖典】503頁)


苦しみ悩みのたうちまわるどうにもならんわたしのために出来た南無阿弥陀仏。真如の世界がこういう形を取ってわたしに元に現われたのではないかと『浄土論』を読んでいく。これは全部無分別の世界を書いているとわかっていく。


「本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし」(『高僧和讃』天親菩薩3【真宗聖典】490頁)


むなしくすぐる われわれの生き様(結局最後は手放していく)
 =声聞に墜ちないことだと思った
真っ黒のこころを抱えて、自己満足の心を抱えて、求道する空しさを感じる。結局声聞に墜ちる。むなしくすぐることぞなき。声聞にならない。
『浄土論』には「譏嫌の名」(そしりきらうような不快な名)がない世界が書かれている。曇鸞は、声聞も「声聞」というそしられる名前がついているからそうなんだ。名前によって分別されない世界にいれば他の求道の人たちと一緒じゃないかと書かれてないことをいいだす。

自分はここは、名前という分別がないという想像よりも、名前がないということかなと感じる。それはわたしは名前があったら、絶対分別する身だから。


『浄土にはかくのごとき等の与奪の名なきことあきらかなり。』
(『浄土論註』巻上 総説分 観察門 器世間 大義門功徳【註釈版七祖篇】76頁)
ここの部分だろうか。ちょっと読んだ。

曇鸞大師が無我夢中で書いたのが伝わってくる。自分は自分勝手な思いで仏道を求めている声聞だ、煩悩から離れられない、そういうところでしか求められないわたしがいるから浄土が生まれた。このすくいの形が生まれたんだと、『浄土論』は自分一人のために書かれた無分別の智恵だと思われた。

浄土に生まれるのは 無生の生
本当の世界に目覚める人にとっての生というのは、苦しむ人を再び目覚ましていくこと。
もし生まれるということが消滅するということは、すくわれる縁手がかりがないということだ。三千大世界が号泣するぞ!

法性法身 一切は空。本当の智慧の姿。
↓  ↑
方便法身 わたしをすくおうとする。真如の世界から出てきたものだ!すべてそうだ!

わたしが居るから智慧の世界があり、慈悲がある。浄土と迷いの世界ができたのは、わたしがいるからだ。本当の真如の世界が出来たのは、わたしがいるからだ。阿弥陀さんの本願が生じたのは、わたしがいるからだ。どうやっても真如も浄土も見られないわたしがここにいるのは、真如の世界がはたらきかけているからだ。
わたしと真如の世界はふたつでもなければひとつでもない。

「証知生死即涅槃」

(『教行信証』信巻【真宗聖典】206頁)


おたがいがおたがいをささえ、うみだしてここにある。ここにわたしがすくわれていく道がある。
十一願、十八願、二十二願を取り出し、阿弥陀仏の願いがここにあると『浄土論註』を閉じていく。

菩提は煩悩を用いてわたしを目覚めさせる。煩悩いっぱいのわたしが圧倒的な智慧の海の中に入ったら、すべて一つになっていく。
曇鸞大師はすごい。すごい。要で出てくる念仏。煩悩の闇を破する。

瓜生師が涙したという最後のところを読んだ。
声聞は、十八願で念仏往生し、十一願で仏願力により必ず滅度に行くことを証される。そして二十二願で

 

「仏願力によるがゆゑに、常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。常倫諸地の行を超出するをもつてのゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る三の証なり。これをもって推するに、他力を増上縁となす。しからざることを得んや。」
(『浄土論註』巻下 解義分 利行満足章 三観的証【註釈版七祖篇】156頁)

ここにあったと思われただろうか。ここにあったすくい。

これを読んだ後、もう一回正信偈の曇鸞章に。なんだこれ。全然違って聞えるじゃないか。知るってすごいな。

『浄土論註』で曇鸞大師が語られることは、すごく遠いお浄土じゃなくて、ひとつでもなくふたつでもない世界。自分がわかるようで、曇鸞大師の熱い想いを感じて響いてくるようなもの。読もうと思ったら、伝わってくる。