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光慶寺仏教講座 正信念仏偈(26)「広由本願力回向」瓜生崇師

2022年2月13日(日)

光慶寺仏教講座 正信念仏偈(26)「広由本願力回向」 瓜生崇師

 

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「広由本願力廻向
為度群生彰一心
帰入功徳大宝海
必獲入大会衆数」
(『教行信証』行巻 【真宗聖典】206頁)

【回向】 功徳を差し向ける。
自業自得・自因自果(わたしのやったことは自分に返ってくる)というが、自分の修行は自分に結果が返ってくるという前提だが、仏教の早い段階から修行者の功徳を他者に差し向けると言うことが言われるようになった。

アシダ仙人 ブッダが生まれたときに泣く。この子がブッダになる頃には自分はこの世にいないから。
真実に遇いたいと思って生きてきたが、どうしてもそれが叶わない。自分の思い通りにならない。誰もが修行して出家していけるものではない。働いてもいけない。托鉢(布施)で生きる。在家の人に支えられるのを前提に出家があるというシステム。普通の人はなかなかできない。すべてを捨てて出家するから。

覚りの智慧は慈悲のはたらきになっていく 目覚めたら他者を救っていく
→いろんなものを抱えて生きる人(在家)は出家を支えることで、出家者の功徳を差し向けてもらう。在家戒もある。
戒はあるが、本当の仏教の教えは善悪がない。本当の智慧は善悪を超える(空)
それを思うと「わたしがやった善がわたしに返ってくる」というのは転ぜられていかなければならない。
回向がないとわれわれはすくわれていかない。

・本願力=阿弥陀さんのはたらき
・群生=いきものがあふれうまれいずるすがた。
・度する=すくう

【一心】 親鸞聖人が大事にされた=天親菩薩の功績
・『浄土論』=一心の華文 阿弥陀さんのすくいというものが一心のすくいであると表わされた素晴らしい文章であると親鸞聖人がいわれた。

十八願
「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念。若不生者、不取正覚。唯除五逆 誹謗正法。」(『無量寿経』【真宗聖典】18頁)

我国=お浄土(法藏菩薩が建立する仏国土)
阿弥陀さんがわたしに願われている
至心・信楽・欲生我国(無量寿経 さんしん) 
至誠心・深心・回向発願心(観無量寿経 さんじん)
法然上人は一緒だと言っている。親鸞上人は一番の「根本のところでは一緒だ」と言っている。

親鸞聖人は三心をとても気にされているが、法然上人は、お念仏をするとついてくるもんだという。善導大師は観経の三心の方を大事にしている(一方で唯除五逆…は省いたりする)。
曇鸞大師は「お浄土にいって自分が満たされたいというような気持ちでもとめることですくわれるということはない」という。煙のないところに火をもとめるようなものだ。仏になりたいということはあらゆる衆生をすくっていきたいという思い(願作仏心)。自分が信じているということは、阿弥陀さんのはたらきを真っ向から疑ってはねつけている。われわれが疑いなく何かを信じると言うことが出来るか?できない。

・信疑一如 強く信じれば信じるほど、疑っている。そうなんだと自分に言い聞かせている。
親鸞聖人は、自分が出来ないのにこれが必要だと願われていることを考えて行かれた。
・至心 誠の心 内と外が一致する心。

仏教を聞いても、仏道を求めても、自分が満たされたいだけだ。不浄説法(覚ってもないのに覚った顔をして名利欲と利益よくのために法話をする)ということに悩んだんじゃないかという話を前にした。真実を求めているようで中身はドロドロではないかと。法然聖人は内と外を一緒にするべきだという。われわれはなかをぶちまけることもできない。どっちかに合わせることも出来ない。
『観無量寿経』でお釈迦様を呼びつけ泣きわめく韋提希は、「威儀を正した」と善導大師は言う。それは、内と外が一緒になっている。仏教聞いてた素晴らしい王妃から、瓔珞を投げ捨て罵詈雑言を吐く姿へ。これが正直な姿。

わたしの中に誠の心はまったくない。こういうものをすくうには、100%誠の心を持ったものでないとすくえない。真実は必ずすべてのものを目覚めさせようというはたらきになる。どうやってもすくわれないわたしがいるからだ。この願いをおこさせたのはわたし。これが肝心。天親菩薩が『浄土論』でいいたかったのはこれだと『浄土論註』で曇鸞大師が深く見て行く。

どうして至心が誓われたのか。どうやっても起こしようもないのに。なんでだ。親鸞聖人は、法藏菩薩の願いが真実でなかったときはなかったという。なぜなら、わたしの中に、ほんのかけらも本当のこころもまことのこころもないからだ。法蔵はそういう願いを持ってわたしに呼びかけてきたんだ。これは、阿弥陀さんの心。これをわたしに回向してくれた。阿弥陀さんのまことのこころをまことのこころたらしめているのはわたしだ。至徳の尊号をもって(帰命尽十方無礙光如来)その体とする。南無阿弥陀仏としてさしむけられる。至心は南無阿弥陀仏。

 

ああ、この部分、何回か聞き直している。
お経は鏡だって話を聞いた。これ、自分のことを映し出すと思って読むのと他人ごとに思っているので全然違う。よくわからないけど、自分は自分のことと聞けるときとそうでないときがある。それをコントロールすることはできない。最近、ものすごく「親鸞一人がためなり」の聞えた感じの違いがあったのがそうでもなくなった。なんなのかわからない。書いたらあほみたいだが、自分のことなのだ。何回聞いてもそうだと思うのとそんなことないと思うのと、関係ないと思うもっと冷たい心にきがつくのが、「わたしにまことのこころはない」という言葉。
瓜生師が現代語を読まれているところは『教行信証』信巻【真宗聖典】215頁のところ。

 

虚仮雑毒 誰かのため、人を助けたいというのは本当はそう思っていないだろう。己のためだろう。全部嘘偽りだろう。わたしのなかに本当のものはなにもない。わたしが阿弥陀さんを疑わないなんてない。
三心=疑蓋まじわることなしに集約される とおっしゃる。阿弥陀さんが、わたしが浄土に往生して仏になることを疑っていない。親鸞聖人が信心とおっしゃるときは、すべて阿弥陀さんの側からの言葉として語られる。阿弥陀さんがわたしのことを信じている。わたしが信じると見えるところもあるが、全部のところを見て行くと、如来がわたしのことを信じている。そういう100%疑いのない心がわたしに差し向けてくれている。これが信楽。
一つの心に集約していくところは次回に。

最近、いろいろ法話を聞いていて、真如の世界とわたしの間(空間と言ったらまた話が違う)、接合点の南無阿弥陀仏というのをすごく感じる。自分の中には全然ないぜと思っている欲生について考えている。自分のこととして考えている。
今一生懸命復習という形で聖典をひいているけど、そろそろ原典精読をやる。

 

◆前回のレビュー

luhana-enigma.hatenablog.com