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京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.7『証巻』(瓜生崇師)

2022年2月16日(水)19:30~

京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.7『証巻』(瓜生崇師)

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証巻は先生によって重点を置くかどうか千差万別のところ。行と信に依ってもたらされる果報(浄土)について解説している。お浄土のすくいがなんなのかというのを明らかにしたのが証巻。
「仏道の根基は菩提心であり、これを廃捨し専修念仏だけを勧進する法然は畜生である、あくまである。By明恵」
証巻にも明恵という人の影を感じる。法然聖人は、菩提心をそのものを否定されたのではなく、「わたしの菩提心はない」とおっしゃる。親鸞聖人は、「浄土の菩提心」を証していく。浄土はどこか遠くにある話じゃないぞ、本当の菩提心のはたらきが浄土のはたらきなんだとおっしゃる。
『浄土論』にはキラキラした世界が描かれる。親鸞聖人は、この証巻は二つの願文から明らかにされる。

 

「たとい我、仏を得んに、国中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ。」(『無量寿経』上巻【真宗聖典】16頁)


十一願文をそのまま読むと、浄土に生まれたら必ず悟りを開くと読める。証の巻はとても哲学的で、曇鸞『浄土論註』の引用になる。このダイジェスト版と言っても差し支えないくらい。

「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の特に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。」
(『教行信証』証巻【真宗聖典】280頁)

修行が出来るようになって正定聚になるわけではない。どうにもならん者がどうにもならんままで覚りを開くことが今定まる。
・無常涅槃 大乗の本当の世界
・報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり わたしのところに現われるはたらきは、弥陀如来というかたちになってわたしに現われてきた。
仏像、南無阿弥陀仏という文字、わたしたちは実体のあるものとしてこれがなんなんだろうと思う。これは空の世界から姿を現したものであるといわれる。そのすがたそのものが、大乗の本当の覚りの世界である。
どうも浄土教がレベルの低い人に説かれたものであるというような感覚が明恵にもあったし、いまもある。親鸞聖人はこういう方法でわれわれの元に現われれているのがすごいのだと。大乗正定聚。

どうにもならん者がどうにもならんままで覚りを開くことが今定まる。頻出。ここが肝要。

「荘厳妙声功徳成就」は、「偈」に「梵声悟深遠 微妙聞十方」のゆえにと言えりと。これいかんぞふしぎなるや。『経』に言わく、「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなわち正定聚に入る。」これはこれ国土の名字仏事をなす、いずくんぞ思議すべきや、と。」
(『教行信証』証巻【真宗聖典】281~282頁)

浄土が安楽だと思って生まれたいと思うもの、往生を得た者は正定聚に入る。曇鸞大師は「生まれたいと願ったもの」ではなく「生まれたもの」にしている。
国土の名字 南無阿弥陀仏が仏の仕事をしている。

【還相回向】
これが大事。

「二つの還相の回向とい言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。すなわちこれ「必至補処の願」より出でたり。また「一生補処の願」と名づく。また「還相回向の願」と名づくべきなり。『註論』に顕れたり。かるがゆえに願文を出さず。『論の註』を披くべし。」
(『教行信証』証巻【真宗聖典】284頁)

浄土に往ったらもう帰りたくないと思いませんか?迷いと苦しみの世界に行けって言われたらいやじゃないですか。還相回向は、迷いと苦しみの世界に返していく、これが阿弥陀さんのはたらきだという。往相回向(浄土へ行く)のと還相回向は一緒にある。

・利他教化の益 迷いの世界にいるひとを覚りの世界に導く

『浄土論註』に書いてあるから願文は書かないっていってる。

「たとい我、仏を得んに、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえ、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立てしめんをば除かん。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。」(『無量寿経』上巻【真宗聖典】18頁)

弘誓の鎧 阿弥陀さんの誓いの鎧。迷いの世界に入ったら、煩悩に流されるから。誓いを立てるんだ。かならず衆生を助けていくんだと。そしていろんなところに行ってお聴聞し続ける。覚りの世界に入ったならば、苦しんでいる人が見えるだろう。その人をすべてすくいにいく。

常倫 一段一段仏の覚りを段階的にする。初地以上。
普賢の徳 覚りの一歩手前にいて、ありとあらゆる仏さまのところをお聴聞して回る。等覚と一緒。

二十二願に注目したのが天親菩薩、曇鸞大師、親鸞聖人。
天親菩薩は大乗のすくいは還ってくるところで完結するという。曇鸞大師はこの不思議な願いを普賢の徳が大乗のすくいの最も深い形だという。

弘誓の鎧って、いいな。なんだろう。どこまでも護られているのだな。

 

「(初地已上七地以還)の菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し、と。龍樹菩薩・婆藪槃頭菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。」(『教行信証』証巻【真宗聖典】285~286頁)

作心 他者をなんとかしなきゃという気持ち。自分のため。だいたい助けていくというのも分別。カルトに入っているのが悪で、入ってないのが善としている。本当の菩薩にはそういう心が泣く、遊ぶように衆生をすくっていくという。遊ぶときに名誉を高めたいとか思わないよね?
未証浄心 覚りにいかない宙ぶらりんだけれども、阿弥陀仏を見るとき、上地の菩薩と同じ「はたらき」をする。大事なはたらきをする。
だから龍樹も天親も浄土に生まれたいといった。

そうか。これが七地沈空を超えることなのか。菩提心をもってぶち当たるところ。この「阿弥陀仏を見るとき」のところは、曇鸞は観仏の視点で言っているのだろうが、自分は南無阿弥陀仏であると感じる。


「問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に上れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。」(『教行信証』証巻【真宗聖典】286頁)

わざわざ上地の菩薩と未完全な菩薩が等しいとかいわないでもいいのではないか?

「応えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須く畢竟平等と言うべし。」(『教行信証』証巻【真宗聖典】286頁)

七地沈空、地獄に落ちた方がましだといわれる。中途半端な空を覚るとすくわれる手がかりがなくなる。ただ、十方の諸仏の勧めがなければ脱することが出来ない。二乗に墜ちる。菩薩の死。覚ってしまってそこから進めなくなる。七地沈空が菩薩のことだから、自分のことじゃないという人がいうが、そうじゃない。自分のことだと思って、人間が自力で陥る落とし穴だと先人は見て行かれた。菩薩がそういう空の覚りをひらかないで阿弥陀仏を見ることで不完全な状態のままで普賢と同じはたらきにいかされるようになる。畢竟平等とはこういうこと。
清沢満之はみんなを目覚ましてすくっていこうということをしなかったという批判がある。どこまでも自分の心を見て向き合っていた。すくわれたって書いたり、そうじゃないって書いたり、ぐるぐるぐるぐるしている。そういう清沢満之の姿からどれだけ多くの人が真宗の道に入っていたか。自分の中の解決が第一で迷い続けている中で、その人が目覚めさせられ、感化された人がなんと多いことか。まよって苦しんでこの道をとぼとぼ歩いている未完成な菩薩と言ったらたよりないが、二十二願は、そういうところに菩薩を留める。一生補処、それが他力によってなさしめられる衆生の救済はこういうかたちをとるんだと親鸞聖人はおっしゃる。

「高原の陸地には蓮華を生ぜず。」(『維摩経』より)
煩悩いっぱいで真如に背き続ける者があるからこそ、そういう自分がいるから阿弥陀さまの願いが立てられた。

「一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。このゆえに広略相入して、かぬるに法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他にあたわず。」(『教行信証』証巻【真宗聖典】290頁)
「前後の広略、みな実相なるがごときなり。実相を知るのもってのゆえに、すなわち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなはち真実の帰依を起こすなり。」(『教行信証』証巻【真宗聖典】292頁)

生死即涅槃がここ。真如からわたしに分かるように出てきた方便法身。輪廻もなければ浄土もないのに、迷って苦しんでいるわたしのためにでてきた。べつべつのものでもひとつのものでもない。

広=方便法身 略=法性法身

「菩薩願ずらく、「己が智慧の火をもって、一切衆生の煩悩の草木を焼かんと。もし一衆生として成仏せざることあらば、我仏に作らじ」と。しかるに衆生未だことごとく成仏せざるに、菩薩すでに自ら成仏せんは、譬えば火てんして、一切の草木をつんで、焼きて尽くさしめんと欲するに、草木未だ尽きざるに、火てんすでに尽きんがごとし。」(『教行信証』証巻【真宗聖典】293頁)

あらゆる人をすくおうとして自分が焼き尽くされてしまう。それが大乗の覚り。『無量寿経』ではもう法藏菩薩は大分昔に阿弥陀さんになったって書いてある。これはすくうものとすくわれるものが溶け合っているすがた。

長いから引用せず王舎城所説の・・・また当に往生を得ざるべきなり」(『教行信証』証巻【真宗聖典】292~293頁)

無上菩提心=願作仏心 自力は自分の作心の道だが、阿弥陀さんのものは度衆生心(すべての衆生をすくう心)
お浄土に往って楽ちんをしたいというのはでは浄土に生まれないよ!あらゆる衆生とともにすくわれていきたいという大きな願いにすくい取られていくんだ。

「しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向によりてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌えを開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。」(『教行信証』証巻【真宗聖典】298頁)

お釈迦様おの言葉は、大乗の涅槃の覚りは、願力回向(浄土に生まれさせる、浄土から戻ってこの世に還る)による。
証巻の要は還相回向、天親の浄土論から読み解いた曇鸞が重要。

大乗の教えってすごいな。自分が如何してもすくわれないものであるということに向き合いながら、もっともすくわれない自分というものと仏教のすくいを突き詰められて行かれた人たちの軌跡があるんだなと思う。
龍樹菩薩も触れ、天親菩薩も書かれたいわゆる七地沈空、菩薩の死。これは聖道門の話じゃなくて、どうやっても分別から逃れられない、自分のすくいに向いてしまう自分に苦しまれた話。曇鸞大師は29回も『浄土論註』の中で声聞という言葉を出されていた。自分は今まで声聞・縁覚のことは関係ないと聞いていた。最近のお話を聞くにつれ、そうじゃないということにやっと気がついてきた。親鸞一人がためというところが全然関係ないここでも自分にはでてくる。これ、自分としては、南無阿弥陀仏で上地の菩薩と等しいはたらきになると思うんだ。観仏じゃなくってさ。個人の感想。声聞も、南無阿弥陀仏だな。
最近自分はずっとひとりで向き合う勉強をしている。でも今日は法話ではないお話を聞いて、法話で気がつく別の世界を持っている他の人の事をもっと見てもいいのかなと感じた。他者に翻弄されることと、目を向けることはまた別のことじゃないかとも思えたから。

とりあえず、この復習、何時間かかってるのだろう。でも楽しい。

 

◆『教行信証』シリーズ

 

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