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『阿弥陀経』のこころ① (瓜生崇師)

2022年2月19日(土)14:15~15:45
等光寺 報恩講 『阿弥陀経』のこころ①

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浄土三部経で小経と呼ばれる。一番短いお経。
お経の最初にたくさんの弟子の名前が出てくる。

【お経の構成】
・誰が ・どこで ・誰に対して  話をしているか
・お釈迦様が ・祇樹給孤独園(祇園のこと)で
須達(スダッタ)給孤独園長者といわれていた。みんなをすくおうとしていた。
  他人にものを分け与えるというだけではダメだと言うことに気がついた。
祇陀(ギダ) 素敵な土地を持っていた。

【ほんとうのすくい】
 〔オウム 林郁夫 病気を治すだけでは人をすくえないということに気がついて、麻原 彰晃のもとへ〕
 家族が居て、お金があって、不自由がなくて、いろんなものにかこまれてもそれが幸せと
いうことではない。家族のこともほんとうはなにを考えているか分からない。全部失っていくものだから。
 仏教というのはいのちの大事さを教えたものではない。命がだいじだと書いてあるところはない。命が大事だといえば言うほど、人間の一生は虚しくなる。大事なものを失う方向にわたしたちは生きていくしかない。一日生きるということは、一日命を削っているということ。なんも出来なかった日、なんもできんかったことないよ。一日を削った。
 今を一生懸命生きるというのもいっていない。今の一日を精一杯生きていけないときが必ずくるから。やりたいこと、したいことがだんだんできなくなっていく。最後からだが動かなくなっていくのに、精一杯生きるなんて出来ない。お釈迦様は輝いて生きて行けなんていわない。そうやって生きていけない日が必ず来る。人生は苦なりといわれた。

【祇樹給孤独園】
 スダッタは困った人をたすけてきたけどそれだけではダメだったと気がついた。スダッタはお釈迦様の教えを聞きに行った。お釈迦様の説法を聞ける道場を作るにあたり、ギダの土地がよかった。譲ってもらう条件として、土地に金貨を敷き詰めろといわれる(ゆずるきなし)。どうしても欲しいスダッタは頑張った。ギダは後は自分がお布施するから残りの土地はスダッタにあげることにした。
 貧しい人、お年寄りや身寄りのないこどもたちがいた。聴衆は彼らを含めて1250人。

【舎利弗】
 お釈迦様の弟子。智恵第一。『阿弥陀経』に36回出てくる。お経が説かれた相手。バラモンの修行をしていて、目連とサンジャヤという哲学者の弟子になった。頭角を現し、250人の弟子がいたと言われている。
 「お釈迦様というこういうひとがいるらしいよ」という話を聞いて悟ったと言われる。250人の弟子を率いて当時無名のお釈迦様のところに弟子入りした(もちろん後輩である年齢)。最後はお釈迦様が亡くなる前に亡くなったといわれている。

【阿那律(アナリツ・アヌルダ・阿ど楼駄)】
 お釈迦様の説法中に居眠りして、もう二度と眠らないと誓い、夜も寝なくて失明してしまう。それくらい深い反省をした。ある日針仕事をしていた阿那律は目が見えないので、「誰か針の穴に糸を通してください」といったら、お釈迦様がやってくれた。仏陀になられたのに、まだ徳、善を積まれるんですか!?という。お釈迦様が「他者のためにということは終わらないんだ」とおっしゃるのを聞いて、阿那律は悟ったといわれる。

【周利槃陀伽(シュリハンドク)】
お兄さんがとても頭のいい人だったが、なにを聞いても忘れてしまう。大事な仏法の話を忘れてしまう。自分の名前を忘れてしまうので名札を背負っていた。茗荷食べすぎると物忘れするというのは、周利槃陀伽の屍体のところから茗荷の花が咲いたというところからきている。修行をしたいという周利槃陀伽の思いを聞いたお釈迦様は、ほうきとちりとりを持ってきて、掃除をしなさいと言う。「塵を払わん、垢を除かん」といいながらするようにと。毎日道場の掃除をなかなかできない周利槃陀伽にお釈迦様がついて手伝った。当時の修行者は掃除をするなと言われていた。掃除をしている暇があったら修行をしなさいと言われていた。修行しないで掃除しておけと言われたら、腹を立てるところだが、周利槃陀伽は掃除をし続けて阿羅漢の悟りを開いたといわれている。舎利弗と対照的な人。

【無問自説経】
南無阿弥陀仏を一心不乱に称えたら、安楽な世界とか幸せな世界に生まれる。これはたくさんの仏さまが正しいっていっているよという内容に見える。
お釈迦様の説いていた教えはこうではなかった。死んだら良い世界に生まれるというのは、わたしたちはいいなーと思うが、わたしが生まれ変わり死に変わりするの迷いを断ち切って、本当の世界に行くというのは???となりますね。こっちの方が本来の教えだ。
出家者には 世界のありのままの真理を悟って迷いを終わらせる。
在家者には 一生懸命にいいことをしなさい。そうしたら良い世界に生まれる。
と分けていた。
在家のわからない人向けに説いているような話なのに、最高の知恵者、しかも覚っているの舎利弗に説いている。これはなぜなのか。舎利弗もびっくりしたと思う。36回も舎利弗に呼びかけるのに、一回も返事をしない舎利弗。
普通お経は問答形式で書かれるが、このお経はいきなりお釈迦様がしゃべりはじめて、誰も問いかけない。そして話しかけている舎利弗は全然返事をしない。舎利弗は覚って空を知っていたので、「お釈迦様…それわたしに言うことですか…?」と思っていたと思う。

舎利弗は絶対返事をすべきシチュエーションで一回も返事しないでこのお経は終わっている。

【念仏の教え】

かつてお釈迦様は、父の浄飯王に念仏を説いて、「お弟子にはもっと高度な話をしているのに、わたしに念仏とはばかにしているのか」と怒らせたという。
お念仏という教えは簡単だと思われている。それが本当に仏教なのかと言うことを考え出すと分からなくなっている。スダッタはいろんなものに恵まれていて、生活の不安がなくても人間はすくわれないと気がついた。人間はそんな浅いものではないのが仏教。


・倶会一処 お浄土に往ったら懐かしい人に会えるという。最初に解釈したのは法然聖人だが、会いたい人だけじゃないよね、会うのは。会いたい人に会いたいというのは身勝手な自分の差別の世界の延長でしかない。
苦しいことがなくなったら、楽しいこともないよ。平日働いてたから土曜日がうれしかったんだよ。楽しいことがなかったら苦しいこともないよ。そんな世界にいたら、退屈で苦しいことを探すよ。これ仏教でもなんでもないような世界を舎利弗に熱心に説くお釈迦様。「いいか!舎利弗!こんな素晴らしい世界があるんだぞ!」と説く。舎利弗は、「僕じゃなくて、貧しい人や、身寄りのない子供たちに説く内容じゃないの?」とおもっていただろうね。

【対告衆】
『無量寿経』 阿難 誰よりもお釈迦様の話を聞いていたのに悟ってなかった。
        愚かなままで仏さまと同じはたらきをすることが説かれてる
『観無量寿経』 韋提希 王妃 ひどい目に遭ったときに「阿難を遣わせてわたしを癒やして!!!過去世にどんな悪いことしたっていうの!?」といままで仏教の教えを聞いていたはずなのに、投げ捨てて仏教ではないことを言い出す。聞いているつもりが聞いていない。仮に仏道に生きていると思っても、とんでもない不幸が来たら仏教なんかどうでもよくなるときがあるかもしれない。

『阿弥陀経』知恵第一の舎利弗

【阿弥陀さまはどこにいる】
 ここから西に十万億の仏土を超えたところに阿弥陀さんという仏様がいて、浄土があって、今現在お説教をされている。というのがお釈迦様の第一声。

・西 太陽が沈むところ。すべてのものが還っていくところ。
   
覚っている舎利弗(聖者)にはすごく遠いところと表現されているが、仏教を撥ね付けていた凡夫の韋提希(凡夫)には「こころ去ること遠からず」、そこにあるといっている。なぜ人によって違う事を言っているのか。どっちがほんとうか。

一休さんの話。
蓮如さんのお話を聞いていたご門徒が村人と話していたら、「念仏称えたらお浄土にいけるというのはうそだ。見た人はいない。坊主がお布施欲しいから言っているのだ。」というのを聞いて、「『阿弥陀経』に阿弥陀さまとお浄土がどこにあるか書いてある!」と喧嘩になる。そこにきた一休さん。「一休さん、この人たち、西に十万億の仏土を超えたところに阿弥陀さんがいると言ってくださいよ!」と門徒が詰め寄る。「お前、仏教よう聞いていると思ったが、なにも聞いていないのだな。お浄土に往っても阿弥陀さんなんておらへんで。お浄土に往っても阿弥陀さんはお留守やで。」
「お浄土に阿弥陀さんはいないんですか?」「おらんおらん。」「じゃあどこにおわすのですか?」
「今、お前をたすけんとここにおいでやったのだけど、お前は遇わなんだか?」

浄土極楽の世界はわたしの言葉を超えた世界といわれる。一見するとわたしの欲望の延長のようにみえるけど、本当はそうじゃないとわかる。本当のすくいというものは、自分のこころの思いをこえている。だいたい想像できたり納得できたりするものはろくなものがない。たいしたものじゃなくて、いつか崩れてしまうもの。
本当に大事にしていること、これが大事でかけがえないものだと思っているものでは目覚めることが出来ない。わたしのこころはわたしのものではない。わたしのこころはわたしじゃないとお釈迦様はおっしゃっている。そのこころによって迷って、苦しんで、右往左往しているのがわたし。自分のこころが自分の思い通りにならんからだ。こんな気持ちになりたくないのにと思ってもなるよ。忘れたいことは大概忘れられないもの。わたしのこころは感覚で取り込んだものが流れているだけ。本当の目覚めはこころの問題ではない。最初これを聞いたときになにを言ってるんだろうと思った。西が遠い方にあるというのは、わたしたちがテレビ見たりお話を聞いたりして自分のこころを何とかしようとしている。お浄土はわたしが納得してこうだと思って現われるものではないという。本当のすくいの世界、本当の智慧に目覚めたものは、あらゆる生きとしいけるものが自分の心でずっと迷って苦しんでいることがわかるんだ。わたしの心を超えた圧倒的遠いところにあるのだけど、本当の世界に目覚めたものは、わたしを絶対にすくおうとしてわたしのところにはたらきをもたらす。

【影現(ようげん)】

形をとって現れること。影は姿かたち。
太陽はずっと遠いところにある。みんな太陽のことを知っている。海も、湖を、水たまりも、その姿を映す。圧倒的な智慧で照らす。遠くてもそのはたらきはここにきている。

これは楽ちんなところに生まれるような話じゃない。舎利弗、本当の世界のはたらきがお前を照らしてるんだ、とずっと話をしていく。(つづく)

 

『阿弥陀経』の話をこんなにしっかり聞いたのは初めてだと思う。YouTubeで見たことはあるけれど、それは講義形式で教学的な話だった。これは法話。そしてこの日は舎利弗同様、なんでやねんの気持ちを持ち越したのであった。

実は不覚にも久しぶりに法話を聞いて涙が出てきた。お釈迦様と阿那律に「他者のためにということは終わらないんだ」と語られたところと、一休さんの「今、お前をたすけんとここにおいでやったのだけど、お前は(阿弥陀さまに)遇わなんだか?」という話。そのときは自分でもなんでここなのかまったく理解不能だった。
夜にお聴聞友だちにこのことを話していて、思い当たることがあった。数日前にある講義を聞いたのだけど、そのお話を聞くにつけ「ありがたない、もったいないと思わなければいけない」ということを知らされるようで、今の自分の聞いていること、疑問を持ちながら聞き続けていることが仏法を聞くに値しない、壁となって感じてしまい、たいへんしんどい思いをした。もう正解は決まっていて、それがわからない自分はもう入り込めないなと思った。どこまでも阿弥陀さまは彼方にいて遠くてたまらない存在だった。偶然友だちも聞いていて、同じ思いを共有できた。
自分勝手に解釈しているだけなのだが、「他者のためにということは終わらないんだ」というお釈迦様の言葉を自分に向けていわれた言葉のように思った。一休さんの「今、お前をたすけんとここにおいでやったのだけど、お前は(阿弥陀さまに)遇わなんだか?」は、阿弥陀さまは遠くないということをもう一度自分に差し込まれたような言葉だった。全然『阿弥陀経』の本筋じゃないのかもしれない。でも自分はこのお話ではこう聞いたのだった。
なんだかんだ言って、自分の為に聞いているから自分の思うような話でなかったら壁を感じるだけなのかもしれない。教学も知らないし。でも教学を知らなかったらお話を聞くことってできないのかな。自分はこころに勝手な阿弥陀さまを作っているとは思う。でもそれはみんなそうだろう。『阿弥陀経』の法話で思った。そういうところでしか自分は聞けない。