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本光寺 歎異抄を読む(17)(瓜生崇師)  

2022年2月21日(月)19:30~21:00
『歎異抄を読む』17 第二条 本光寺 

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前回は、「とても地獄は一定すみかぞかし。」まで。

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【前回まで】
命がけで親鸞聖人のところまでお話を聞きに来た関東のお同行。なぜ来たかというと、念仏すると無間地獄に墜ちると日蓮がいい、息子の善鸞が「秘密の教えを受けていた」と言い出す。当時の人にとって、地獄に行くことはとても苦しく恐ろしいことだったと思う。

「念仏誹謗の有情は
  阿鼻地獄に堕在して
  八万劫中大苦悩
  ひまなくうくとぞときたまう」
(『正像末和讃』正像末浄土和讃41【真宗聖典】504頁)

地獄に落ちたら気が遠くなるような時間、苦しまなければならないといわれていた。
日蓮はすごく人情に厚い人だった。六十代で亡くなったが、「俺はなんで殺されなかったんだ」と歎いていたらしい。本当に仏道を求めていたら、権力者に殺されると思っていたそうだ。迫害も仏法の証として力強く進んでいく人だった。ひとりひとりに大丈夫だと向き合って優しい手紙を残している。そういう日蓮の教えを信じていく人が多かった。浄土真宗は一方的に攻撃されていた感じがするが、門徒が日蓮の教えを聞く人を襲ったということもある。お互い様なところがある。日蓮が過激で真宗は被害者というわけではない。
「総じてもって存知せざるなり」と、門徒たちに先生パンチをする。
極楽にいくならお念仏をする。地獄におちるならしないという話ではない。それは本当の信心ではないと言った。

いざ自分のいのちが危ぶまれたときに、死とはなんだろうという疑問は現われてくると思う。そう思うと、親鸞聖人の回答が納得がいかないと思っただろうね。親鸞聖人は自分の都合で念仏を称えているのと同じだといっている。お念仏したからお浄土にいけますよね?というのは阿弥陀さんとの取引だ。これは信心でもなんでもない。

「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」
(『歎異抄』第二条【真宗聖典】627頁)

たとえ法然聖人に騙されて、念仏をして地獄に落ちたとしても、後悔はしない。なぜなら、自分が修行をして悟りを開けるような身であれば、念仏したから地獄に落ちて騙されたという後悔もあるかもしれないが、自分は何も間に合わない、そんな仏道修行が出来ない仏になれない身なので、だから私の行き場は地獄しかない。だから後悔はない。
親鸞聖人の話を聞きに来た人は、親鸞聖人が権威がある人だから聞きに来た。いまのわたしたちだったら、親鸞聖人の書かれたものを見て確かめていきます。僕らはお念仏を信じているんじゃなくて、ただの権威を信じているんだわ。でもこういう形でしかわたしたちはもとめていけない。
親鸞聖人は、「法然上人が言ったから信頼してお念仏をしている」のではないと言っている。「わたしはお念仏以外出来るものではないからだ」。他にわたしにはないんだ。ただ念仏もうすしかないからだと。法然上人が偉いから権威があるからすごいからだというのではない。どんな聖者も心の奥底には自分の本当の心、とんでもないものがある。わたしがそうだね。これは親鸞聖人が法然上人を信じていないと言うことではない。もっとも深いところで信頼していたということでもある。

三昧:精神を深く集中していく仏道修行 サマーディ
善導大師はいつでも観仏できなければならないという。それが出来ないときは念仏。
法然上人は、黒谷の叡空の念仏結社に行ったが、観仏ではなく当時低く見られた念仏ではないかと思っていた。法然上人は、観仏があまりに難しくて、本当に仏さまはこれをすすめているのかと思う。師匠の叡空と観仏と念仏で対立する。叡空は「良忍上人も観仏だとおっしゃっているではないか!」と言ったが、法然上人は、「良忍上人といっても、先に生まれただけではないか」という。怒った叡空が木枕を法然上人に投げつけて額に当たり、鮮血が流れたという話が残っている。

修行において、自分の心と外面が一緒のものではなければならない。自分の心を清らかにして、外も清らかじゃないといけない。内と外の一致。人間社会では、美味しくないものを「美味しい」と言うこともある。内外が一致しないといけない。法然上人は、かっこだけは戒律を守ることは出来るが、自分の心はどうにもならないと悩む。内と外が一致しない自分には観仏は出来ない。どうしたらいいんだどうしたらいいんだという思いを抱えて法然上人は仏道修行が間に合わない人間がどのように救われるのかと、報恩蔵で5000巻のお経を五回読み通したと言われる。仏は自分のことを絶対見捨てないと思っていた。観仏が出来ない、内外が一致しない、真の心になれないわたしがすくわれる道がどっかにあるはずだ。最後は涙を流しながら探されたという。そのとき、善導大師の南無阿弥陀仏のすくいなのだという文に出遇った。
なぜ南無阿弥陀仏がすくいなのか。それは、「仏さまがそう願っているからだ。」

「一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」
(『観経疏』散善義【註釈版七祖篇】463頁)

念仏称えて、なんもならんのやらなんのすくいにもならない。そういうのは自分のはからいでしかない。法然上人は念仏は、わたしの名前を称えていらっしゃるから念仏はすくいなんだと言った。自分のどうしたらどうしたらが奪い取られた瞬間。自分にとって都合の良い方向にいく(自力)。それによってわたしたちは苦しんできた。都合に合わないから。お念仏がなぜすくいなのか。「仏さまがそう願っているからだ。」それに応えて念仏するだけど。地獄と極楽が問題になくなる。まちがいなく極楽にいくのが真宗じゃない。地獄にいくのも極楽に行くのも問題じゃない。行くところに行くだけだ。仏が願っている、まかせる以外にどうにもならんもんであった。自分で極楽も地獄もどっちにいくかコントロールできない。わたしの問題でなくなる。これが浄土真宗の信心。

【阿弥陀さんの信心】ふたつ
・絶対に地獄に落ちるということ
・阿弥陀仏は絶対わたしをすくうということ
どっちが本当なんですかと言いたくなる。善導大師はどっちも本当で、そのふたつが自分の身の上で明らかになるという。
このふたつはふたつのものであって、ひとつのものだという。
だから親鸞聖人は、「そんなことはしらん」という。地獄に落ちても生きていけるという信心。

【極楽浄土】
地獄、餓鬼、畜生のものはいないと書いてある。よく読むと、地獄、餓鬼、畜生を差別する名前がないという。一切差別しない世界。
「かの仏国土は三悪趣なければなり。舎利弗、その仏国土には、なお三悪道の名なし。」
(『阿弥陀経』【真宗聖典】127頁)

親鸞聖人は、地獄にいく身だといった。地獄に生きられる。極楽にも生きられる。そういうものが溶け合った世界。地獄に行くのが絶望にならない。

「假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」(『無量寿経』巻上【真宗聖典】13頁)

わたしが無間地獄に落ちてそこで無限の苦しみを受けようとも、みんなを助けるためなら決して後悔することはない。阿闍世も、父殺しの罪により地獄に落ちることを恐れたが、お釈迦様に遇って『自分が無間地獄におちてもみんなが救われるので後悔しない』という。こんな心が自分の中から出てくるなんてと阿闍世はいう。菩薩は自分が地獄に落ちても衆生をすくっていくという存在。菩薩にとっては地獄に落ちると言うことが菩薩のすくいになる。
仏教のむなしいということは、一人だけすくわれること。あいつは地獄でおれは極楽というのが一番むなしい。あなたが地獄に行くなら一緒に行きましょうというのが菩薩。
仏教でいちばんすくわれがたいところにいるのは阿弥陀さん。すべての生きとし生けるものをすくうと誓ったから。阿弥陀さんは永遠の間修行を続け、菩薩に留まると書かれたり、とっくの昔に仏になった言われたりいろいろ書かれる。阿弥陀さんは、浄土の存在と、ともに地獄にいるのがひとつになっているでしょう。阿闍世が助かるのは地獄に落ちることじゃなかった。『自分が無間地獄におちてもみんなが救われるならば後悔しない』というのがすくいといえる。仏道においてもっとも深い迷いは、自分一人ですくわれていくことで、あらゆる大乗仏教の仏典に書かれている。
仏道に目覚めると言うことは、悟りの一歩手前にとどまって、迷いの世界に還ってすべての人をすくい続ける。だからこそ、仏の願いはむなしくならない。みんなが助かるまで迷いの世界にとどまるからだ。『教行信証』証巻に詳しく書いてあります。

【親鸞聖人の論理展開】
・弥陀の本願 
  ↓
・釈尊の説教
  ↓
・善導の御釈
  ↓
・法然のおおせ
  ↓
・親鸞の申すむね

われわれは逆に親鸞聖人から上っていく感じ。わたしたちも確かな先生から話聞いて正しいとおもっていくところあるよね。
弥陀の本願が真だと親鸞聖人はおっしゃる。阿弥陀さんは、わたしの名前を呼んでくれと言って何万人何億人の人を通して私に届いた。わたしが南無阿弥陀仏を称えたことが、わたしに念仏を称えさせるという願いがわたしの上に成就した証であるという。関東の同行の立場と逆。親鸞聖人がどういうかで聞きに来た。本願が真だから、お前たちに伝えたことがまちがいじゃないんだよと親鸞聖人は言う。

最後の台詞が粋。「とどのつまり、あなたたちがお念仏を信じようとも、やめようとも、あなたたちの勝手ですよ」と言って終わった。おそらくここまで一気にまくし立ててふすまをぴしゃんと閉めてどっかいっちゃった感じですね。そんな気がします。
ひとりひとりのことだというのですよ。

唯:本願は自分一人にむけられたもの。だれかがなにかいってるからやるものではない。阿弥陀さんと自分との対話。

前半は一気に一時間近くのお話だった。これがもう止められない感じだった。
いつも思うが、動画がないリアルお聴聞の場合はメモのため、他の人に伝わっていると思えなくて残念である。
何回聞いても「順彼仏願故」のところはすごい。これ、先日『阿弥陀経』の法話で知恵第一の舎利弗が声聞に悩んでいたというのと法然上人、親鸞聖人が重なって、さらには比べるものでもないが今聞いている自分のところにまでおりてきた。わたしの思いは差し挟む余地がない。求めている視点からひっくり返される。それはどうにもならない自分をおもりにして別のなにかが飛び出してくるような。

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唯(ただ)の話。自分のことに聞けないときがあったのだけど、声聞を関係ないと思えなくなってきて、すべて自分のことなんだと思う。自分のことじゃないことがない。
菩薩って、他者をすくっていきたいと思うのだけど、自分は今、ロシアのウクライナ侵攻にいろいろ思うことがある。すべての人がすくわれてほしいと思う。ウクライナの人も、ロシアの人も傷つく人が少ないようにと思う。この気持ちは自分だったら嫌だからという利己的なものが最初かもしれない。自分は国際政治のことには精通していない。でも血が流れていることは分かる。こういう自分の気持ちも、深く深く見て行けば、自分のところにその影響がないようにという思いなのかもしれない。でも今は、そう思うことは止められない。地獄に行っても生きていける。これが自分の中に張り付いている。

 

◆本光寺 歎異抄を読む

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