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『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第八回(瓜生崇師)

2021年8月8日(水)19:30~
『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第八回 (瓜生崇師)
「阿難座より立つ」

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【質問コーナー】
・ご信心を獲た人に導いてもらわないと、ご信心をいただくことはできないと聞きました。最近瓜生先生はご信心を頂いてないから、彼の話を聞いても信心は頂けないし、すくわれないと言われて、混乱しています。どうなのでしょうか。

他人の信心をはかることってできないんじゃないですかね。自分の思い、周りの言う人のいうことを信じているだけでは?それってわかることじゃないでしょう。親鸞聖人は、「俺は信心いただいた身になった」とおっしゃっているところがない。
本願寺派でどういっているのか教学をやっている人に聞いたら、そんなもんないといっていた。

「みづから信じ人を教えて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。
 大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。」
(『往生礼讃』初夜讃 大経礼讃【註釈版七祖篇】676頁)

わたしがご信心をいただいて人に教えることが大事だと。これはとても難しいことであるとおっしゃる。だからこそこの信心の世界を人に伝えて導いていくと言うことは大変すばらしいことなんだ。これが本当に仏さまの御恩に報いるということである。

これは信心いただいた人でないと導けないと言っているわけではない。親鸞聖人はここを信巻と化身土巻に引いている。

「自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難の中に転たまた難し。大悲弘く普く化するは、真に仏恩を報ずるになる、と。」
(『教行信証』化身土巻・本【真宗聖典】353頁)

往生礼讃は主語がわたし。親鸞聖人は「大悲が弘く」で阿弥陀さんが主語。親鸞聖人においては、私でもなく人でもなく、阿弥陀さんのはたらきであるといっている。伝えるのはわたしではなくて、阿弥陀さんが目覚めさせていくんだという言い方をされる。親鸞聖人は直接善導じゃなくて智昇法師『集諸経礼懺儀』を引いている。こっちがあっていると思われたのだろう。


「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。」
(『歎異抄』第六条【真宗聖典】628頁)

親鸞聖人は弟子を持ってないと『歎異抄』第六条でいっている。師匠が言ったことを弟子が聞いていくというようなことがないといっている。われわれも先生を仰いでいく。親鸞聖人を師として仰いでいく。われわれはそういう気持ちでいるが、そこに導いていくとか導かれるということはないという。わたしの力でみんながお念仏を称えるようになるならそうかもしれないが、阿弥陀さまのはたらきだと。わたしも周りの人も、大きな願いの中では平等だ。たまたま先に仏法を聞いたから。その中でこの人は弟子だとかいうのは荒れて虚しい。

「説道も涯分いにしえにはずべからずといえども、人師、戒師停止すべきよし、聖人の御前にして誓言発願おわりき。」(『口伝鈔』【真宗聖典】650頁)

『口伝鈔』では、お説教が大分上手くなってみんなを導いていくということはないと法然上人の前で誓ったとおっしゃっていることが紹介されている。
親鸞聖人は、名号が聞えたことが信だといっている(十七願)。法然上人も一緒で、法藏菩薩がわたしのために名号を作って下さったことこそわたしの往生の証と見て行かれる。自分が信じることに信の証ではない。南無阿弥陀仏を教えてくれた善知識は諸仏。諸仏から衆生へ。それがわたしのところへ。親鸞聖人は踏み込んで、わたしにお念仏を伝えて下さったものはすべて諸仏であるという。『観経』の登場人物も。

「大聖おのおのもろともに
  凡愚底下のつみびとを
  逆悪もらさぬ誓願に
  方便引入せしめけり」(『浄土和讃』観経意7【真宗聖典】485頁)

ご信心いただいた人かどうか、仏か、凡夫か、ご信心いただいているかとか関係ない。南無阿弥陀仏を伝えてくれるものは還相の存在だと親鸞聖人は見て行かれる。

※梯實圓和上の法話(省略・メモのみ)…ここに居る人がみなさんご信心の人だと思います。

お話を聞きに来てくれる人がご信心の人だというのはなんかわかる。大津の聞法会に来て下さる方を見るにつけ、仏法を尊んでいる姿を見て話しているものが、南無阿弥陀仏が真なんだと知らされる。そこに師や弟子、導くものとかはない。だから御同朋、御同行でしょう。
お互いに仏法を証あう人たちなんだということ。お話聞いて間違いないと思ったら、まずいところにいますよ。わたしが大丈夫だと思ったものが崩されていくのが聞法だ。

親鸞聖人は、信心について全部阿弥陀さまの側から語られます。阿弥陀さまがわたしの浄土往生を疑ってないということ。自分の側に間違いないものを作ったらおかしい。

「敵の陣に火をとぼすを、火にてなき、とは思わず。いかなる人なりとも、御ことばのとおりを申し、御詞をよみ申さば、信仰し、うけたまわるべきことなり、と。」
(『蓮如聖人御一代記聞書』166【真宗聖典】884頁)

火がついてたら、もうそれは燃えてるってことだから、それがどうしてなのか、火がどういうものなのかとか関係ない。その通りに受け取っていきなさいということ。
あいつは最低の人間だから、あいつはたいしたことないからといって聞かないのは違う。口から出るのがお聖教や南無阿弥陀仏なら、それはそのまま聞きなさいということ。

「『華厳経』の偈にのたまふがごとし。
「もし菩薩の、種々の行を修行するを見て、
善・不善の心を起すことあるを、菩薩みな摂取す」と。
まさに知るべし、謗りをなすもまたこれ結縁なり。われもし道を得ば、願はくはかれを引摂せん。かれもし道を得ば、願はくはわれを引摂せよ。すなはち菩提に至るまで、たがひに師弟とならん。」(『往生要集』巻下 問答料簡 助道人法【註釈版七祖篇】1178頁)

菩薩の行をせせら笑う人がいても菩薩は助ける。ここを引用されている。
謗る立場になるかどうかも縁次第。互いに師弟とならんというのは、お互いが師であり弟子である。感動的でしょう。
仏教のお経は『阿弥陀経』を除いて問いに答えている。問いがお客様を喚起して説かせている。人間の悩みがあって初めて仏教が成り立っている。教える、教わるという関係が単純にそう言えない、溶け合っていく。
『華厳経』に普賢の十願が説かれている。人にお話を聞かせて下さいと言って回ることで法が説かれると書いてある。

 足利浄円師のお話。

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わたしのなかにはなにもない。自分の中になにか出来るわけじゃない。無仏の中でわたしがすくわれるとはどういうことか。その結果が南無阿弥陀仏ということば。自分の心の中に仏恩報ずる思いがあるというのが自分の往生の証拠にはならないですよ。いま自分に届いている南無阿弥陀仏しかない。

久しぶりにこれを聞いたら、また半年前とは違う感じがした。半年であったいろいろな自分のことを思う。誰が誰の話を聞いてもいいではないか。それぞれ勝手にしたらいいと思う。聞いているのは仏法。それをもう一度確認した。でもなあ、なかなか自分が嫌いな人をも自分を目覚めさせてくれるはたらきだなんて思う余裕ないんだよな。本当に。できたらいいけど。
自分には信心をいただきたいという仏教的な願望はない。でも、なにかが不安で聴聞せざるを得ないのだろう。最近思う。善友の話を聞いているのだと。

 

【尊者阿難座よりたちて】
『無量寿経』【真宗聖典】6頁の最後の行から
阿難は立ち上がってびっくりした。お釈迦様の顔が輝いていたから。今まで見たことがない。阿難 如何したことですか。今、仏と仏が相念じ合う世界に居るのではないですか?
釈尊 天人がそなたにそのような質問をさせたのか?それとも自分で気がついたのか?
阿難 まったく自分の考えからおたずねしたのです。

お釈迦様は、お前の問いはすごいぞ!!!とお釈迦様が言う。この問いは阿難一人の問いではないと言っています。梵語では、阿難の問い自体が如来の威力によるものだ。あらゆるもののすくわれたいという想いが阿難にこの質問をさせた。

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
(『教行信証』行巻 正信念仏偈【真宗聖典】204頁)

仏というのは深い慈悲の心でみんなをすくおうとしてこの世界に出てこられたのだ。その問いは、あなたひとりがすくわれる問いではなくて、すべての人をすくっていきたいという如来のはたらきから出てきた問いなんだとここでいう。

・出世本懐経 『無量寿経』と『法華経』
『法華経』の最初も似ている。お釈迦様の説法の時に、光り輝く花が舞い、大地が揺れたと(六種に震動する)。そのとき
弥勒 何が起きたんだ?(文殊菩薩に聞こう)
文殊 これはお釈迦様が、これを説くために生まれてきたんだという本当のことを説くところだ1
というところで始まる。
なにか起こるぞ…と気がついたのは、
『法華経』:みんな(文殊も弥勒も目覚めたもの)仏同志がわかり合っている状態。唯仏与仏の知見。
『無量寿経』:阿難(凡夫。一生懸命お釈迦様のお話を聞いていた凡夫。)

阿難エピ
①    釈尊の乳母が出家したいというが、サンガの風紀が乱れるから認めなかった。それを阿難は「女性が修行して悟りを開けないんですか?」とつっかかる。お釈迦様は「悟りを開ける…」ということで女性の出家を認めさせた。
②    お釈迦様のお話を全部覚えていた。仏典結集のある朝に覚った。覚ってないから仏典結集に入れてはいけないといわれてもめていた。「如是我聞」の我=阿難。阿難がいなかったらいまここにこのお経はない。
③    イケメンだった。
④    どうして悟りを開けなかったのか。
・人に応じてお釈迦さまは話をするのだけど、一番近くに居たが故に、これだけきいているんだというところにドスンと座っていたのではないか。

お聴聞は、聞いていったらいろんなことがわかってきます。昔分からなかったことが、信心、念仏、すくいとかがなんかわかってくる。2年も3年も聞いたら要の部分はわかる。そうなると、俺はこれで大丈夫なんだになってしまう。その先を聞いていったら、頭の中で理解して納得していた仕組みがあるが、自分の下の心が真っ暗闇で冷たいままだということに気がつく。親鸞聖人は、石、瓦、礫のごとくとおっしゃっている。どこまでも冷たいママの自分。聞いた、知った、覚えたのわたし。聞いていったら、それを見つめている暗いわたしがいる。首から上がうなずいて、首から下が、浄土と聞いても仏と聞いてもピクリともしない自分がいる。阿弥陀さんがすくおうとしているのはこの下の部分。
仏智を拒絶して背を向けているわたしに出遇っていく。これが仏の教えを聞くということ。自分が納得してうなずくほど、そうじゃない自分に遇っていく。そうなると仏の智慧に背を向けて、おれはおれが大事なんだといっている自分が見える。ご信心いただいたと言うのは自我の拡大。勘違い。驕慢に沈んでいる。

お釈迦様は、難行苦行をされた後、ニレゼン河で沐浴して乳粥をもらい、菩提樹の下で悟りを開いたといわれているが、「修行は求めすぎたら、これだけやっているんだというところに慢心に沈んでいくんだ。ただ、修行にしなければ、懈怠にいってしまう。」ということに気がつかれた。
自力 と 無帰命安心 のどっちもだめだ。中道(迷いの道・決定しない)を行きなさい。
わたしの頭の中にカチンとはまるものを求めているのが座っているということ。
ここを進んだらすくわれるんだってわかっていたら楽だね。そんな道はないんだ。

お釈迦様が輝いているというが、釈尊は、「わたしはいつもと変わらない」という(梵語)。
変わったのは阿難。

【仏仏相念】
阿難がこれに気がついた。『法華経』はみんな悟っているから仏仏相念。阿難は凡夫だから仏さまが相念じあう世界に気がつくはずがない。
われわれはひとりぼっちの世界にいる。悟ってない世界はひとりぼっちの世界。大乗経典ではそう表現される。ないはずのわたしがいると思って孤独。他の人のことがわからないし、自分を誰かにわかってもらうこともできない。自分の思いの世界を一歩も出られなくて死んでいく。仏の世界は、自我の世界が破られ、他者の悦びも苦しみも同じに感じられる。
これは阿難を動かした、われわれの思い、仏道を求める人の願い。無仏の世界にいるわたしたち、凡夫しかいない世界。迷ったものしかいないこの世界で悟りを開くとはどういうことかというのを2500年悩んできた。悟った人がいない世界で凡夫のままで仏の世界を見ることができるのか。そういう思いが阿難を突き動かして問いをなさしめていると釈尊が気がついた。阿難は、わたし。これはわたしの問い。聞いても、納得しても、理解してもすくわれないわたしの思い、願いが阿難を突き動かしてこの問いをなさしめた。
みんなお釈迦様と同じはたらきをしているというが、阿難一人だけが本当の智慧に目覚めていないと梵語の方にはっきり書いてある。ひとりだけ悟ってない阿難が、ひとりだけお釈迦様の姿に気がついた。凡夫が凡夫のままですくわれるというのはどういうことかというのが書かれているのが『無量寿経』。

『教行信証』総序の後にすぐ、真実の経だといっている。【真宗聖典】152頁から。真実の経の根拠とされるのは、さまざまな訳本の阿難が起ったところを出している。
真実の経である証は、凡夫である阿難が、仏の世界に目覚めたから。七高僧がずっと向き合ってきたのもこのことである。

阿難が座より立つ。この瞬間がすべてなんだな。まずは座っている自分に気がつくところから始めないと、たったことすらわからないな。
何回聞いてもすごい。阿難は自分。親鸞聖人もそう思われていたと。
お経は鏡というけど、最近ようやくその意味が感じられてきた。自分のこととして、そこにいるのは自分じゃないか!と読んでいくのだと。
座よりたつ阿難も、瓔珞を投げ捨てる韋提希も、耆婆にお前の象に乗って一緒にお釈迦様のところに連れて行ってくれという阿闍世も、お釈迦様に何度呼ばれても返事をしない舎利弗も。
全部自分のことなんだ。

 

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