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『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第十一回(瓜生崇師)

2021年11月7日(日)20:00~

『無量寿経』を読むーZOOM講座-阿難コース 第十一回 (瓜生崇師)

「法蔵菩薩の誕生」

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【質問コーナー】
・お釈迦様が真如に目覚めたら、慈悲によってみんなを目覚めさせていったんだということだと、人格的ななにかを感じる。誰が目覚ましたのか。

龍樹は諸仏がお釈迦様を目覚めさせたと書いている。
親鸞上人の考え。

「自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆてに。法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこのおんちかいになりけるゆえに、すべての行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすとるべしなり。」
(『末燈鈔』自然法爾章【真宗聖典】602頁)

自然というのは、そのようになるもんなんだ。日が上に昇るように、水が低いところに流れるように。自分が老いるように。無分別の世界を曲げているのはわたし。フラットな現象に分別、意味づけをしているのは自分だ。大峯顯先生は、阿弥陀さんのはたらきは宇宙そのものはたらきだとおっしゃっていた。われわれは必然的に目覚めていく存在なんだ。仏性というのがあると言っている。目覚めるということが自然だというが、なにもしなくても目覚めるのかというとそういうのではない。自然のはたらきに永遠に逆らい続けてきたわたしの姿があるが、永遠の宇宙のはたらきはかならず目覚めさせるというはたらきである。十二願と十三願に詳しく説かれている。智慧とか慈悲という記号にわたしたちは置き換えている。
お釈迦様は無師独悟といわれるが、導くだけが先生ではないのでは?

「何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せあらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。」
(『教行信証』化身土巻末【真宗聖典】401頁)『安楽集』道綽からの引用

お釈迦様の一生に出てきた登場人物、環境はすべてお釈迦様を目覚めさせたものだといえませんか?宇宙全体がわたしを目覚めさせようとはたらきかけているんだって。
過去も未来も今の一念におさまる(『中論』龍樹)という。いま自分が聞いていることがお釈迦様を目覚めさせるということもありえる。

「大聖おのおのもろともに
  凡愚底下のつみびとを
  逆悪もらさぬ誓願に
  方便引入せしめけり」
(『浄土和讃』観経意7【真宗聖典】485頁)

お釈迦様を目覚ましたのは、阿弥陀さまのはたらき。

自然法爾章、じっくり読んでみるといいなあ。
観経意の和讃も前後を読むととてもいい。登場人物が列挙されている。

【前回まで】
仏教はひとからひとに伝わることで深まっていくということを現している。
大乗非仏説:富永仲基 
お釈迦様が言ったから正しいというものじゃない。わずかな手がかりから歴史の中で悩み苦しむ人たちによって深められたのが大乗仏教。五十三仏が現している。

【世自在王仏】
仏は出世間の存在なのに、世間に戻ってきて。迷いの世で自在にみなを教化していく。
他者というものがなかったら、わたしはない。赤ちゃんのときは自分という思いはない。覚えてない。わたしという存在がない。自我が目覚めたのは、他者とやりとりするようになってわたしが出来た(実は妄想、妄念)。宇宙はわたしと他者を区別しない。無分別の智慧に目覚めたら、他者との境界がなくなる。すべてのものを目覚めさせなければ、わたしがめざめたことにならない。往相還相。
・遊ぶようにすくう それ自体が楽しいからやる。見返りを求めない。

なかなか思えないのだ。すべてが自分を目覚めさせるためにあるのだと。でもこの世界、苦しい世界はわたしが作っているというのは実感する。止められない、湧き上がるこころ。自分だけの世界。でもたまに、ああ、境界がなくなったとしたらみんなすくわれないとダメだなという気づきがあるときがある。たいていは文字通りに受け取るだけなのだが。たまにそうなるのはなんでだろう。


【法藏菩薩】
・国王だった 名前は『無量寿経』に書いていない。名前がないのは、世自在王仏に遇ったので国と王の位を捨てたので、名前に意味がない(梯實圓和上)。
国も王の位も自分のすくいではないと気がついて捨てた。
・国王:自分の思いを満たしたい。夢を実現するために生きる。われわれの理想として極まった姿として表現されている。
・出家して法藏比丘と名告った(比丘である):ダルマ(真実・真如)・アーカラ(鉱脈・源泉)
自分は親鸞会をやめてもまた仏教を聞きたくなる。法蔵は、わたしを真如に向かわせるはたらき。その源泉。そこにあった。南無阿弥陀仏の源泉。

「法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法藏比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。」
(『唯心鈔文意』【真宗聖典】554頁)

分別して生きている。言葉によって分け隔て、世界を認識して、迷う(戯論)。言葉で分かって収めてしまったら真如の世界でなくなる。曇鸞は、かならずわたしを目覚めさせる形ではたらきかけてくる。分別と言葉によって。言葉となって迷いの世界を通過してくる(方便法身)。

どうして真如がはたらきかけてくるのか。曇鸞はどうして真如が自分にはたらきかけてくるはずだと思ったのか。というのを思うと、すくわれない自分とはとか相依性とかいろいろ辿ることがあって、自分のところにきた南無阿弥陀仏のところに行き着く。最近は法話を聞いてこの辺をうろうろしている。
ちょっと自分の昔を振り返った。小学生のときから仏像が好きだった。美術的な美しさもさることながら、自分が好きなのは、「ああ、これを大事に大事にして護ってきた人がいて自分が今これを見ているんだ」と感じること。方便法身の話を聞いていて、その気持ちを思いだした。

 

◆『無量寿経』を読む 復習メモ

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