2022年3月13日(日)14:15~
長願寺春期彼岸会 「二河白道で紐解く浄土真宗」瓜生崇師
今まで聞いた本願寺派の声明の中でもかなり力が入っているのだろうということを感じた。勤行の解説もYouTubeにあり。
二河白道:善導大師が南無阿弥陀仏のすくいをわかりやすく譬えにしたもの。
南無阿弥陀仏がわたしのすくいをわれわれの常識でなかなか理解できないから。
・邯鄲の夢
出世を夢見て都会に出てきた青年は、食堂で出会った老人にもらった枕で栄華を極める80年以上の人生を夢見た。目覚めた後に、田舎に帰る。電光朝露のような人間の人生。
この話を聞くと、青年盧生が田舎に帰った気持ちはわかる。でも自分だったらどうだろうということを考える。あっという間に過ぎ去る夢のような人生。やっぱり、体験しないとどう考えるか分からない。田舎に帰らないで出世するために都会に残るかもしれない。別の夢を見るために。別の上手くやった夢を見るために。こんな譬えを聞いてもそんなことを考えるどうしようもない自分。
自分の心に映った人と話をしているだけ。自分の世界から見た人と会っているだけ。いい人わるい人はいない。自分がどう思っているかどうか。自分の心の世界を生きている。ひとりぼっち。独生独死独去独来。
たくさんの人がいてもさびしい。孤独感。
西。わたしたち生きるものを支える太陽が沈むところ。本当に還る世界。
聞き始めの頃、この「還る」ところと表現されるのが、なんでそれをいえるのかわからなかった。自分はいつもそういうゆるやかなイメージではなくて、「そうならざるを得ない結果」と思う。それがなにかわからないけれど。
本当の世界に目覚めたいと思ってこの世にくる。大きくなると目の前のことに一生懸命になって、こんなはずじゃなかったと死ぬ。
「三恒河沙の諸仏の
出世のみのとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなわで流転せり」
(『正像末和讃』正像末法和讃16【真宗聖典】502頁)
こんなことをずっと繰り返してきた。
自分は輪廻転生を信じるかどうかといわれるとわからない。過去世の記憶とか全然ない。でも、いま生きているだけで知る以上の何かが自分の中にあると思うことはある。それほど自分がわからない。
水の河(貪る心)、炎の河(怒り)は白道の行く手を阻む。
われわれはどんな状況にあっても自分の心や身を喜ばせることを求めていくものである。
ああ、そうなのだ。自分はすくわれたいと思っていなかったのだけれど、結局はなんとかなりたいのだ。自分の心と身がよりましななにかになるように。
既にこの道あり。
書かないけれど、自分にはそう思うことがあった。別に神秘体験ではない。でも聞いている自分が今ここにいるのは、既にこの道があったからだと思うことがある。南無阿弥陀仏だと思う(知る?)前にあれはそうだったと思う。かといってそれが大事でたまらないわけではなくて、そうだとおもうなあというだけ。
「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ。」
(『観経疏』散善義 上輩観 上品上生釈 回向発願心釈【註釈版七祖篇】467頁)
汝と我。この話は行者の話ではなく、汝と我。自分の足下に届いている南無阿弥陀仏。二河白道の話を聞くとそれにびっくりする。これは譬えだ。足下にきている。落ちるとわかって直ぐに来いという。そこに自分が立っている。
自分の話なのだ。
◆前に聞いた二河白道。やっぱりこれ、変わらず感じることなんだ。
このときに聞いた前の人の南無阿弥陀仏で念仏が称えられるようになった。
◆そうそうこれもすごかった。すべてが南無阿弥陀仏で喚ばれる。南無阿弥陀仏が名前であることに気がつきだしたころ。
◆自分の都合だが、帰るというのがどうしてなのか引っかかる。
◆当時あったなそんなこと。
◆感想書けなくなってる(笑)