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光慶寺仏教講座 正信念仏偈(27)「為度群生彰一心」瓜生崇師

2022年3月13日(日)19:30~
光慶寺仏教講座 正信念仏偈(27)「為度群生彰一心」瓜生崇師

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「広由本願力廻向 為度群生彰一心」
(『教行信証』行巻 正信念仏偈 【真宗聖典】206頁)

・仏教で空しいこと 独りですくわれていくこと
「本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし」
(『高僧和讃』天親讃3【真宗聖典】490頁)
世親「不虚作住持功徳(ふこさじゅうじくどく)」
終わっていく、失っていく人生を歩んでいく空しさ。見ていたもの、聞いていたもの、覚えていたもの、できていたことと別れていく人生。

声聞 ひとりぼっちですくわれる存在(曇鸞は『論註』に29回書く)。

【本願力廻向】
阿弥陀さんのはたらきはわたしをひとりのすくいに安住させない。
十八願より、法蔵のすくいの道は、すべてのものが、自分も一緒にすくわれていく道

「普くもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん。」
(『浄土論』(無量寿経優姿提舎願生偈)【真宗聖典】139頁)

一番すくわれがたい自分(親鸞一人がためなりを思いながら聞く自分)に気がつくと、自分はすくわれたけどあの人はまだだとかいう発想自体起こらないだろうなと思っている。

共にすくわれる・・・観経の悪人と善友。
われわれはたまたま仏法を聞けている。→なかなかそう思えない自分。

【不回向】
親鸞上人は回向できないという。自分が一生懸命に修行したのは己がすくわれたいからであり、みんながたすかるためではなかった。ここにきてお聴聞するのは、自分がすくわれたいから。極めて自分勝手なこと。到底他者に回向することは出来ない。

自分には出来ないから本願力回向ですくわれる道しかない。
だからむなしく終わることはない。
差し向けていただいた功徳(法藏菩薩の行)は一心。

親鸞上人は何に悩まれたのか。

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法」(『無量寿経』【真宗聖典】18頁)

善導大師や法然上人は「至心信楽 欲生我国」「唯除五逆誹謗正法」を除く。称我名号というものを代わりに入れて本願加減の文ということもある。問題にされていないのではなくて、あえて除いている。親鸞上人はここを問題にする。推察するに、「わたしは真のこころにも、疑いのないこころにも浄土に生まれたいという気持ちにもなれない。心で父母を殺すものでもある(五逆じゃないなんていえない)。そうなれないのになぜ誓われているのか。」

世親は一心を最初に出す。「世尊我一心」(『浄土論』【真宗聖典】135頁)

【三心一心問答】三心 至心・信楽・欲生我国
親鸞上人は信楽の一心におさまるとみていく。本願力回向故に。

「論主の意、三をもって一とせる義、その理しかるべしといえども、愚悪の衆生のために、阿弥陀如来すでに三心の願を発したまえり。云何が思念せんや。答う。
 仏意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】224、225頁)

・論主=世親のこと。千の論を書いたという。
なんで三心を一心にするかということを解説している。信心一つだから一心を顕していく。
じゃあなんで三つにしたんだろう。
・一瞬たりともまことでないことない行 これ、さらっと読んではいけない。と思う。
・至心 阿弥陀さんがわたしをすくおうとしてたててくれたこころ
・疑蓋雑わることなし 疑いがないのはわたしのこころじゃない。阿弥陀さまのこころ。

【順彼仏願故】
・法然上人は、どろどろの中の心を外に出すこともできない。
そうなんだよね。肝心なところは出してない。出せる人なんていないと思っている。それならば何も出さないというのが自分の選択。これが冷たい人間に思われるのかもしれない。

・法然上人『三昧発得記』阿弥陀さんと浄土を見た記録あり。メモ。それなのに三学非器であるという。体でルールを守っても、こころは守れない。
・本願の中には、どうしてももとめられないわたしの存在があった。すごい転換。
『選択本願念仏集』 自分が選ぶのではない。阿弥陀さんによってわたしのために南無阿弥陀仏が選ばれた。大転換。自分がすくわれていくか、それが念仏かどうかを見ていた。阿弥陀さんが念仏という行を選び取ってくれていたというところに気がついた。阿弥陀さんに選ばせたのは、「わたし」。視点の変換。「順彼仏願故」。
・法然上人は南無阿弥陀仏に三心があると見られていたが、親鸞聖人はなぜわたしの起こせない三心をいうのか。100%の真実をもってすくおうとする法蔵の修行の裏には、1%の真実もないわたしがいる。だからだ!まことのこころを阿弥陀さんに起させたのはわたしだ。
これが本願の回向の姿だ。

この視点の転換、法然上人の方から辿っていくことをきちんと聞いていくのがいい。ただ結果だけ聞くことではない。

「次に「信楽」というは、すなわちこれ如来の満足大悲・円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし、かるがゆえに「信楽」と名づく。すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繫縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを「利他真実の信心」と名づく。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】227、228頁)

・信楽は至心がわたしに差し向けられた姿。
・法藏菩薩に修行させたのは、一ミリも仏さまを信じられないから。
ここをどう聞くか。からっぽのこころに流れ込む南無阿弥陀仏。一ミリも仏さまを信じられないというところを聞く。自分はどうしても自分でどうにかできるというこころを抑えて聞くのが難しい。他の人はどうなんだろう。

「次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。
 『経』(大経)に言わく、至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗正法とを除く、と。已上」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】232、233頁)

・「招喚」「勅命」は善導大師の『観経疏』からとっている。
「汝一心にただちにきたれ」という阿弥陀さまの喚び声。絶対に抗えない喚び声。声の限りに阿弥陀さまが叫んでいる。これが南無阿弥陀仏。これが阿弥陀さまからの白道。絶対お前を往生させるという喚び声。
わたしの側から共に歩んでいこうみたいなものはない。自分の都合しかない。だから阿弥陀仏が喚んでいる。諸仏を通してわたしに届いた。「往相信心の願」。
浄土に生まれたいというこころではなくて、法藏菩薩がわたしと一緒に浄土に生まれたいという願いだった。

なにも理解できないわたしに100%の真実の願いをおこした阿弥陀さま(法藏菩薩)。それが南無阿弥陀仏。これがわたしに差し向けられた本願力回向だった。

二河白道から連続で聞くといいと思う。
分かった気になって聞いているところから、考え出すとまた思考の渦の中に入っていく。
南無阿弥陀仏で、喚ばれ、呼んでいる。互いに。
二河白道の汝と我。これは、法藏菩薩とわたしの話。南無阿弥陀仏のところでの話。
正覚をとらじといっている法藏菩薩とわたし。その願いに向き合ったら、中にいる。聞いているときしかだめだな。あとから書くとおかしくなるな。

 

◆これを見る前に是非「二河白道」をどうぞ。

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