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本光寺 歎異抄を読む(18)(瓜生崇師)  

2022年3月14日(月)19:30~21:00
『歎異抄を読む』18 第三条 本光寺 瓜生崇師

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第三条
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。」
(『歎異抄』第三条【真宗聖典】627頁)

悪人でもすくわれるのに、善人がすくわれないことがあろうか(常識的な言い方)、これは阿弥陀仏のすくいとは違う。善人でもすくわれるのに、悪人がすくわれないことはあるだろうかという。
自力 自分を頼りにして救済の根拠にしていく。聴聞している。
作善 善が好き。どんな悪い奴でも自分がやっていることが本当に悪いと思っていない。盗人にも三分の理。悪を排して自分の善を作って行く。
わが身で善をなしてすくわれていこうとするものは、他力を頼む心が欠けている。

他力本願 人任せのことをいう(一般概念)。

煩悩具足 煩悩が出てくるとか、たまに煩悩がでますとかそういう問題じゃない。全部煩悩。仏教聞きたいも、聞きたくないも煩悩。頭のてっぺんからつま先まで煩悩。
早起きしたのは、睡眠欲に、会社にきちんと出社するという名誉欲が勝っただけ。
阿弥陀仏をたのむ悪人はもっとも往生の正因である。だから善人だって往生するので、ましてや悪人は当然とおっしゃる。

具足ってみちみちてるっていう意味だよな。前に調べた。やることなすこと煩悩でないことはない。というのを忘れて人を批判したり、自己弁護をしたりするのだ。
頭が固い日は、とりわけ善と悪ということを考えすぎてしまう。法話を聞いていて。そうやって考えていること自体だというに。

【悪人正機】
仏教 善悪の教え 
善悪 何が善くて何が悪いのか。生きていたらこれにこだわる。
 善因楽果 悪因苦果 でわける 自因自果

・「名もなき」白楽天と鳥巣禅師の話
仏の教えをわかりやすくひとことでいうたならば、なんであるか。
「諸悪莫作,衆善奉行,自浄其意,是諸仏教 (あらゆる悪をなさず,もろもろの善を実行し,みずからその心を清らかにすること,これこそ諸仏の教えである) 」
(七仏通戒偈)
法然上人は戒定慧であるという。
悪いことをしないで、善いことをする。問題は、何が悪で何が善か分からない。現実に生きていて、何が苦しみ、幸せをもたらすかわからないことないか?ここにわれわれは迷っていく。

会社という集団におけるルールを守ることを思う。善悪がはっきりしている。利益を出すことはいい。法律に反することは悪い。この基軸の中で生きていく。そうやっていると、自分は善悪が分かる人間のような気になるのだ。そしてそれは自身になる。自分は自分を自分でなんとかできると思えるようになる。

律:僧伽におけるルール
戒:善悪の判断基準。われわれは何が善くて何が悪いかわからないのでお釈迦様が定義した。女性の方が多かった。
五戒:
不殺生戒- 生き物を故意に殺してはならない。
不偸盗戒- 他人のものを盗んではいけない。
不邪婬戒- 不道徳な性行為を行ってはならない。
不妄語戒- 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒- 酒類を飲んではならない。

時代に合わなくなっていく(お金、塩)。根本分裂。
人は善悪ではすくわれない。崩れていく。浄土教が生まれてくる原点。浄土教はわれわれが善悪からどう解放されるかということ。
念仏はいいことか?(総じてもって存知せざるなり)
自力 善悪ですくわれていこうとすること。
(お念仏がいいことやと思って称えているのであれば、他力の中の自力です)

と、思うと、会社の善悪がはっきりした中にいれば、自力ですくわれるも同然だな。だから会社でいることが幸せだと思う人がいても当然なのかもしれない。

観無量寿経における善悪のありさま
・上品(輩)上生(無生法忍)、中生、下生 大乗の生き方 →遇大の凡夫
・中品(輩)上生、中生、下生 小乗(自戒)の生き方  →遇小の凡夫
・下品(輩)上生(十悪)、中生(僧侶)、下生 世福 
親鸞聖人は「不浄説法」を下品下生にもってくる。ご自分のことをおっしゃっているのだと思う。
善導大師は、大乗の人なんていないという。遇大の凡夫であるという。たまたまできている。

宿業 どうにもならない業。縁に依って誰でもどうにでもなるものだ。道綽は戦乱期の中国を生き抜いた。そういう時代でわたしの本性は下品だと思った。生きるために盗んだり殺したりしている世界。人格者だと思っている人の心の中、自分と変わらないと思う。

上品上生 阿弥陀さんがたくさんの諸仏を引き連れてくる
下品下生 十二大劫の長い間罪をつぐなうのに時間がかかる。そこから修行。
法然上人は、九品は本当は一緒だ。方便として説いていて、往生する世界は一緒。『西方指南抄』に書いている。解脱貞慶はそれを察知して避難している。「九品が平等だとは経典に書いてない。役人だって努力に応じて官位が決まっていく。生き様や努力に関係なく同じになるわけない。」(朝廷の論理で語る)
究極の人間のすくいは善悪から解放されること。スッタニパータには書いてある!だれも見てないのにそれに気がつく。

他力 善悪平等のすくいでなければいけない。本当にすくわれることはこうでなければないはずだ。

悪がすくわれるという単純な話ではない。

法然上人の転換、すごいな。自分が育ってきて、それが当たり前だと思っていることをひっくり返す発想を持ってそれを口に出すってすごい。
善悪がわかっているとおもっている会社での自分。今回はこれを考えた。それはここでいる悪人が自分だと思えてないところ。でも法話を聞きたい自分は、それが気になってたまらないのだ。自分はわからないのだ。わからないと言いたい。でも言ったら負けなのだ。

 

◆本光寺 歎異抄を読む

 

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