如是我我聞

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京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.8『真仏土巻』(瓜生崇師)

2022年3月16日(水)19:30~
京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.8『真仏土巻』 祇園舎 瓜生崇師

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・慧遠(523年 - 592年)、北周、隋代の地論宗の僧。
・三蔵吉蔵(きちぞう、549年 - 623年)は、中国六朝時代末から唐初期にかけての僧。
阿弥陀仏の浄土は化土であると言った人たち。仮に説かれた浄土。
ここで言う化土はレベルが低い、わたしたちに合わせて寄り添って説かれたような仮の世界のような認識だった。親鸞聖人の化土はニュアンスが違う。

【阿弥陀仏の浄土は報土なのか化土なのか…】
・報土 本当の世界からでてきたものか(これもわたしたちに合わせたという一面あり)
・化土 仮に説かれたものなのか
この区別もわかりにくい。分けるのは難しい。
阿弥陀仏の浄土の中にも真実と仮がある。

真仏土巻は『涅槃経』の引用が圧倒的多数。
真仏土巻は星野元豊師の本がおすすめ(メモ)

「謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と曰うなり。すでにして願います、すなわち光明・寿命の願これなり。
 『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ、と。
 また願に言わく、設い我仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ、と。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】300頁)
第十二願、第十三願。親鸞聖人は、穢れたこの世界にいるから、素晴らしい世界に行かなければならないという説き方をされるが、それをよく見ていったらそれで終わるものではないとおっしゃる。このふたつの願より、この世界は阿弥陀の光にみちみちているという。お釈迦様の仏国土のここにも届いているひかり。阿弥陀仏の浄土は境界が破壊されて宇宙そのものである。

「『涅槃経』(四相品)に言わく、また解脱は、名づけて虚無と曰う。虚無すなわちこれ解脱なり。解脱すなわちこれ如来なり。如来すなわちこれ虚無なり。非作の所作なり。乃至 真解脱は不生不滅なり。このゆえに解脱すなわちこれ如来なり。如来また爾なり。不生不滅・不老不死・不破不壊にして、有為の法にあらず。この義をもってのゆえに、名づけて如来入大涅槃と曰う。乃至 また解脱は無上上と名づく。乃至 無上上はすなわち真解脱なり。真解脱は、すなわちこれ如来なり。乃至 もし阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得已りて、無愛無疑なり。無愛無疑はすなわち真解脱なり。真解脱はすなわちこれ如来なり。乃至 如来はすなわちこれ涅槃なり。涅槃はすなわちこれ無尽なり。無尽はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ決定なり。決定はすなわちこれ阿耨多羅三藐三菩提なりと。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】303頁)
仏性 われわれの中にある仏になる種のようなもの。『涅槃経』のメインテーマ。それそのものが仏、悟り、宇宙全体にみちみちているもの。
生まれ変わり死に変わりしてきたということの視点を変えると、いまここにいる生き物が、かつての家族、親子、友人だったかもしれない。となると、自分と関係のないものなんて一切ない。

仏性、充満している。これ言葉で考えちゃうと間違えそう。

「涅槃は無楽なり。(中略)一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。楽を断ずるをもってのゆえに、すなわち苦あることなけん。無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。(中略)二つには大寂静のゆえに名づけて大楽とす。涅槃の性これ大寂静なり。(中略)三つには一切智のゆえに名づけて大楽とす。一切智にあらざるをば大楽と名づけず。(中略)四つには身不壊のゆえに名づけて大楽とす。身もし壊すべきは、すなわち楽と名づけず。如来の身は金剛にして壊なし。煩悩の身、無常の身にあらず、ゆえに大楽と名づく。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】305、306頁)

楽があるから苦がある。無苦無楽。解放される世界。楽しみが壊れるのが苦。苦がまた幸せを生む。
大乗仏教のさとり、真如は遍在するもの。充満する真理。どこかにあるものじゃない。虚空。

「善男子、諸仏如来は煩悩起こらず、これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり、これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず、これを仏性と名づく。如来は身心智慧、無量無辺阿僧祇の土に遍満したまうに、障碍するところなし、これを虚空と名づく。如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相と曰う。この義をもってのゆえに、如来は実に畢竟涅槃にあらざる、これを菩薩と名づく、と。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】307頁)

仏さんは涅槃にいないっていう!!!遍満しているから。これを菩薩という。われわれの世界を目覚ますはたらきとしている。菩薩。
菩薩でもあるし如来でもある。如来でもないし菩薩でもない。

むずかしいいいいいいいい。しかし自分の中ではイメージがある。これ文字通り解釈したらだめだなあ。

「迦葉菩薩言わく、「世尊、仏性は常なり、なお虚空のごとし。なにがゆえぞ、如来説きて未来と言うやと。(中略)
仏の言わく、「善いかな、善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなお虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身を具足荘厳して、仏性を見ることを得ん。このゆえに我、仏性未来と言えりと。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】307、308頁)

われわれには過去現在未来があるだろ。浄土に生まれて仏性を見ることが出来る。浄土真宗には今のすくいと浄土往生のすくいがある。今のすくいに重きを置かれていると思うが、未来のすくいがないといういい方はされない。

わたしの身の上としては真如を撥ね付けている。仏性をみれるのは今ではないと思われたと言うことか。今のわたしを見続けた結果か。自分を見たからいえる。未来のすくいか。。。自分はそれが欲しいと思っているのかな。ちょっと考える。欲しいと思ったらなんか大分違ったものをほしがるような気がするのだ。

「「世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときの者、なにがゆえぞ説きて、「一切衆生悉有仏性」と言えるや」と。
「善男子、衆生の仏性は現在に無なりといえども、無と言うべからず。虚空のごとし。性は無なりといえども、現在に無と言うことを得ず。一切衆生また無常なりといえども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆえに我この『経』の中において、「衆生の仏性は非内非外にして、なお虚空のごとし」と説きたまう。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】308頁)

われわれは常ならぬ者だけど、はたらきは変わるものじゃない。未来に生じることを現在として語ることがある。
「ごはんは命」→ごはんは食べた後にいのちなる。
充満しているということは普遍なので、必ずわたしはそれに目覚める。だからみんな仏性を有するといっていいのじゃないかという話。

「如来の身を説くに、おおよそ二種あり。一つには生身、二つには法身なり。生身と言うは、すなわちこれ方便応化の身なり。かくのごときの身は、これ生老病死、長短黒白、是此是彼、是学無学と言うことを得べし。我がもろもろの弟子、この説を聞き已りて、我が意を解らざれば、唱えて言わく、「如来定んで仏身はこれ有為の法なりと説かん」と。法身はすなわちこれ常楽我浄なり。永く一切生老病死、非白非黒、非長非短、非此非彼、非学非無学を離れたまえれば、もし仏の出世、および不出世に常に動ぜずして変易あることなけん。善男子、我がもろもろの弟子この説を聞き已りて、我が意を解らざれば、唱えて言わく、「如来定んで仏身はこれ無為の法なりと説きたまえり」と。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】311,312頁)

仏教で言う無学はもう学ぶことがないという意味。
こういうことを聞くと、仏さまは迷いの姿だと勘違いするだろう。または一切の分別を出ていて仏さまは空なんですね、どっちもわかってない。…じゃあどっちやねん。
仏の姿は常にふたつのものがそこにあるということ。広略相入。

これまた中道だな。

「十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。何をもってのゆえに少見と名づくるや、と。十住の菩薩は首楞厳等の三昧・三千の法門を得たり。このゆえに声聞自ら知りて当に阿耨多羅三藐三菩提を得べくとも、一切衆生定んで阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず。このゆえに我「十住の菩薩、少分仏性を見る」と説くなり。善男子、常に一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆えるがゆえに見ることを得ることあたわずと。我が説、かくのごとし。汝が説、またしかなりと。これを随自他意説と名づく。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】312頁)

十住の菩薩は仏性をちょびっとしか見られない。ほぼ悟ってるのに、だからといってあらゆる衆生がすくわれていく姿をみているわけではない。本当の世界を見ているわけではない。だから仏性の一部しか見えてない(随他意説)
仏の真意はあらゆる衆生が仏性をもっている。煩悩が覆えるために見ることが出来ない。ふたつが合わさって、随自他意説。

法話にみんなすくわれる系、自分にはすくいがわからない系ある。
どっちでもない。ちゅうぶらりんのところに真理がある。浄土教の中道。

ああ、でも自分はすくわれる系がだめなんだよなあ。こういうのって黙って聞かなくちゃいけないのだろうか。
少見、最初は全部見えちゃったら菩薩が他者を救う気がなくなるからかと思った。違ってた。穢土にいる、迷いの世界にいるって、こういうことなんだ…。菩薩はそもそもちょびっとしか見えないし、仏さんから見たら仏性を持っている衆生が煩悩で見えない。なんかお互いの世界があるとわかり、共通するところも感じながら見えない。もどかしい。

「『浄土論』に曰わく、世尊、我一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生まれんと願ず。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし、とのたまえり。已上」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】313、314頁)

浄土は空の世界であり、安楽の世界と空は天親菩薩の中で矛盾しない。あらゆる世界を満たす一切差別のない世界という。

「海の性一味にして、衆流入るもの必ず一味となって、海の味、彼に随いて改まらざるがごとしとなり。また人身の性不浄なるがゆえに、種種の妙好色香美味、身に入りぬれば、みな不浄となるがごとし。安楽浄土は、もろもろの往生の者、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土清浄の性成就したまえるをもってのゆえなり。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】314頁)

海の比喩、なるほど。

「西方寂静無為の楽は、畢竟逍遙して有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな径たり。到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん、と。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】321頁)

結局みんなため息をついている。これをさいごに浄土にいこうじゃないかと善導大師がいう。最初に理を突き詰めて、最後情で終わる。

結構これしみじみする。頭沸騰するような視点の入り替わる文章から、情に終わるなんて。。。サラリーマンはね。疲れてため息出ているけど、折れない声聞なんですよ。

「しかるに願海について、真あり仮あり。(中略)選択本願の正因に由って、真仏土を成就せり。真仏と言うは、『大経』には「無辺光仏・無碍光仏」と言えり。また「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経)と言えり。已上 『論』(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」と曰えるなり。真土と言うは、『大経』には「無量光明土」(平等覚経)と言えり。あるいは「諸智土」(如来会)と言えり。已上 『論』には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」と曰うなり。
(中略)すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。かるがゆえに知りぬ、報仏土なりということを。良に仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを「方便化身・化土」と名づく。真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失す。これに因って、いま真仏・真土を顕す。これすなわち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、特に奉持すべきなり。知るべしとなり。」
(『教行信証』真仏土巻【真宗聖典】323頁)
ここは最後繰り返し読む。
最後これから化身土巻を書くという。化身土読んで合わせて考えてみよう。

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