如是我我聞

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長源寺 同朋学習会「無量寿経」(17)(瓜生崇師)

2022年3月17日(木)19:30~
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(17)(瓜生崇師)

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今日は十四願から。

「一四 たとい我、仏を得んに、国の中の声聞、能く計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとく共に計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ。」
(『大無量寿経』【真宗聖典】17頁)

【三乗】
声聞 先生についてひとりですくわれていく
縁覚 誰にも教わらないでひとりですくわれていく
菩薩 みんなと一緒にすくわれていく

お釈迦様は悟ったあと、誰かに話しても理解できないから28日間悟りの世界を味わって涅槃に入ろうとしていた(悟りの完成)。
梵天(人類代表)がお釈迦様のところにいって、誰かわかるものがいるはずだから教えを説いて下さいと説得する(梵天勧請
そのときにお釈迦様は、自分だけがすくわれていっても本当の目覚めではないと気がついた。涅槃に入ることをやめて迷いの世界にとどまった(一生補処・最後の迷い)。
悟りの世界に入らないで、直前でとどまる。まだすくうべき人がいるから。不完全なままで迷いの世界にとどまる(未証浄心の菩薩)。
如来は菩薩であり、菩薩は如来(『涅槃経』)。本当の悟りはわたしを悟らせない。

これ祇園舎の真仏土巻の話がガッと近くなってきた。そうかそうか。どっちでもない。どっちともいえる。

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浄土には声聞と縁覚は数限りなくいる。声聞と縁覚は一番すくわれがたい者だと言われている。一生懸命努力してひとりですくわれていくのが一番すくわれがたい。地獄に行くよりすくわれがたい。自分で大丈夫だと思って歩みを止めてしまう。大宇宙がみんなこの人たちを励まして、人をすくいたいという気持ちにならないと本当にはすくわれない。

龍樹 退きたくない(悟りたい、すくわれたいと必死に求めているがために声聞・縁覚に墜ちる)。頭燃をはらうがごとく仏道を求めるのだ。
曇鸞 作心:すくわれたいというこころ。

すくわれたいという思いがなくならなければ、すくわれない。
すくわれたいというこころで菩薩になれない。

十地経(華厳経)に七地沈空がでてくる。悟ってしまったら、みんな空でみんなすくわれるから、なにもしなくていいんだというところに墜ちてしまう。「すくいの落とし穴」。
自分がすくわれた!というのがお釈迦様が伝えたかった悟りなのかということ。和田稠のことばに、「家の中に、ひとり信心を獲たひとがいたならば、息苦しくてしかたがない」というのがある。

なんかわかる。すごくわかる。やばいくらいわかる。

『阿弥陀経』でお釈迦様が語りかける舎利弗は声聞第一。舎利弗は悩む。『法華経』では舎利弗と迦葉がいかにそこから出てすくわれていくかが書いてある。

声聞と縁覚はわたしたちと無関係ではない。親鸞聖人にもこういう悩みがあったと思う。すくわれたという思いがあるが、自分がそこにとどまっているのではないかと思う。『教行信証』証巻にそういう引用が多用される。

「もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。」(『十住毘婆沙論(易行品)』総説 難易二道【註釈版七祖篇】4頁)
自分の思いでこの道を求めているようで、この思いで最後求められなくなる。ここから他力が出てくる

「声聞衆無量なり。このゆゑに稽首し礼したてまつる。」
(『十住毘婆沙論(易行品)』弥陀章【註釈版七祖篇】17頁)

「また舎利弗、かの仏に無量無辺の声聞の弟子あり、みな阿羅漢なり。これ算数の能く知るところにあらず。もろもろの菩薩衆もまたまたかくのごとし。舎利弗、かの仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。」
(『阿弥陀経』【真宗聖典】128頁)

阿羅漢 お釈迦様の悟りでは完璧な悟り。大乗仏教では、空の世界は見えるけど、自分と同じ悟りにみんなが目覚めてる姿は見えない完全な悟りではない。

そういう人が無量にいる。声聞だけじゃなくて菩薩も数限りなくいる。一番すくわれるてがかりがない声聞がいっぱいいる。菩薩もいっぱいいる。浄土の素晴らしいところはここ!!!なんで!!??

「本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし」
(『高僧和讃』天親菩薩3【真宗聖典】490頁)
一番むなしいのはひとりですくわれていくこと。

この和讃、ずっと考えていく。むなしいとはなにか。むなしくならないとはなにか。自分にとって。

「一五 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿命能く限量なけん。その本願、修短自在ならんをば除く。もし爾らずんば、正覚を取らじ。」
(『大無量寿経』【真宗聖典】17頁)
浄土に生まれたものは永遠に生きる。ここまではいいが、その後に永遠に生きていけるけど、あなたが短くしたいのだったら除くと言っている。望まないなら本願から除く。
ここで二願を思いだそう。

「二 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿終わりての後、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。」(『大無量寿経』【真宗聖典】15頁)
迷いの世界に戻ったときに、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に還ることはない。
生死の苦しみから離れるはずなのに、生まれ変わりの死に変わりに戻りたいならそれでもいいといっている。還っていったとしても三悪道に落ちないという。浄土は片道ではない。片道ならひとりぼっちの救済に閉じこもってしまう。
浄土と迷いの世界は分断されたものではない。戻っても「朱に交われば赤くなる」にはならないといっている。

だんだんこの視点の違いに気がついてきた。こういうのって何回も聞かないとダメだな。録音を何回も聞いて新しく聞く。

「二二 たとい我、仏を得んに、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立てしめんをば除かん。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。」
(『大無量寿経』【真宗聖典】19頁)
一生補処 一歩手前!完全な悟りを開くのが定まったけど、開いたわけじゃない。
その目覚めによって、目覚めてない人のために弘誓の鎧(阿弥陀さんの広い誓いを知ったということ)を着る。三悪道に落ちない。
供養 お話を聞かせて下さいと言って回るひとはお話をする人と一緒。迷いの世界に戻ってお聴聞していく。みんなと一緒に仏道を求めていく存在になる。

善導大師の「順彼仏願故」の文を見て専修念仏の道を行かれた法然上人。法然上人に出遇われた親鸞聖人。親鸞聖人の教えを今に聞く自分。その間にいるひとたち。普賢の徳に生きたひとたちがいる。

「小慈小悲もなき身にて
  有情利益はおもうまじ
  如来の願船いまさずは
  苦海をいかでかわたるべき」
(『正像末和讃』愚禿悲歎述懐5【真宗聖典】509頁)
そうなんだよなあ。
他の人をすくいたいということばって自分は信じられない。絶対そこには自分が自分がというのがある。これって会社員やってて身にしみている。本当は自分だけがすくわれたい。すくわれたいというか、自分の満足なんだ。

還相の菩薩 浄土に往ったら菩薩の道に目覚める。あえてさとらずに、みんなと共に道を歩んでいく。
だから永遠の命を捨てさせられる。それを捨てることで本当の菩薩道を歩むことができる。

親鸞聖人が注目している「除く」は二十二願と十八願。絶対すくわれないわたし、本願によって目覚めていく姿。

「無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまう」
(『正像末和讃』愚禿悲歎述懐4【真宗聖典】509頁)

「声聞・縁覚の地を超越して、空・無相・無願三昧を得たり。善く方便を立して、三乗を顕示して、この中下において滅度を現ずれども、また所作なし、また所有なし。」
(『無量寿経』【真宗聖典】5頁)

三空不空 自分もみんなもすくわれているのでそこにとどまってしまう。みんなが目覚めていくことにきがつかない。
中下 声聞と縁覚
滅度を現ず あえて無限の命をすてて死ぬ
お釈迦様は迷いの世界にとどまってみんなと一緒に悩んで苦しんで生きて死んだ。われわれと同じ迷いの生き様をしたのは声聞縁覚をすくうため。

梵天勧請、阿弥陀経での舎利弗への呼びかけ、いろんなことがつながってきた。そしてそれは自分に続いている。他人の話じゃない。自分の話なんだと思って聞く。

如来と菩薩。

それにしてもYouTubeや録音聞いて、原典読んでやってると法話メモがめちゃめちゃ時間かかる。しかし今まで勉強してこなかった自分には貴重な時間。毎日ちょっとでも聖典を読む。これを誇るのではなくて、結構うれしく思っている。読めるんだ。読んでみたら。それがうれしい。

◆長源寺 同朋学習会「無量寿経」

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