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『親鸞和讃』を読む 「十方微塵世界の」 寺澤真琴師

2022年3月26日(土) 19:30~
『親鸞和讃』を読む 寺澤真琴師

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宗教はマニュアル化できるのか。

 

 

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【質問コーナー】
領解をどのように得られるのか
前回の「よくよく案ずれば」からの話。案ずる、知るという事について話した。「案ずる」は仕分けしていくようなこととは違うという事だと思う。

信知 一体化していくような知り方。信からみていくこともあるだろう。
信じる というのは自分達が考えるよりニュアンスが広い。

言葉で領解の方法を記述できるのであれば、浄土真宗は違った形で残っただろう。それができないから今の浄土真宗があるのではないか。
みおしえを素直に受け取れたら何の問題もないんだろうが、入ってこようとする者を反射神経的にはねのけていこうとするところが人間にはある。普通に説明して受け取っているのと違う形で宗教の話は入ってくる。
論理的に説明がつくものだったらたいした問題にならない。煩悩をコントロールできれば苦しみが少なくなるというのはある意味説明している。でも裏側に穴が出来る。

こうすれば信心得られるよ、この人の話を聞けば信心得られるよというのはたまたま。八万四千の法門があるのは、それぞれ合うことが違うから。
毎日お聴聞するのがいいとも限らないし。

・信心という入り口で止まっている
信心は入り口なのか?
信心は共振 教えを聞いてなにかが自分の中に起きる。むかっとくるのも共振。
信心求めるのも大事だけれども、あとからついてくるものとも言える。信心がいただけないからダメだということではない。
共鳴するところを探して欲しい。かといって自分にながされずに。

なるほどね。それはあるかも。自分の中に起こってくることで気づきがあるんだろうな。
通じ合った見たいな瞬間だよな。
とりあえず、自分はこの質問されている方がものすごく「正しい浄土真宗のすくわれかた」みたいなのを求められているのかと思った。

和讃の話しをするときには是山恵覚和上の本がいいと聴いたので読んだ。

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これかな。

親鸞聖人は、『教行信証』で教義をあらわしたが、『和讃』でそれを和語にしたというが…。
教義を学ぶと言うことはあらゆるひとに必要なのか?説く人は必要だが、教学をしらなくても念仏者となることはある。
和讃は論理と言うより、むしろポエム。詩の世界でしか語れない、詩的言語で語られる。

『教行信証』教義の側から浄土真宗をあらわす。
『親鸞和讃』教義だけではこぼれ落ちるものを詩的言語に置き換えた。
親鸞聖人が感動した部分が和讃に生まれ変わっているというのがある。
次回以降、讃阿弥陀仏偈和讃をやっていこうとおもう。和讃が独特の世界を作っている。
和歌はされなかったようだ。

花鳥風月より自分の内面を残す方に興味があったのか。

「十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなわし
  接取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる」
(『浄土和讃』弥陀経意1【真宗聖典】486頁)

『阿弥陀経』『観無量寿経』『往生礼讃』に出てくる言葉が混ざっている。親鸞聖人の独自の表現が際立つ。
微塵 ①細かくしていく ②数が無量である この場合は②といわれているがどうだろう。含ませている表現。

『御文章』の白骨の御文 「あはれというもおろかなり」これはおろそかという意味、十分ではありませんという意味。現代語だと愚か。おろそかの意味から愚かにつながるところがあると思う人がいた。意味を挙げてこっちだよ!で終わるものではない。重奏的なもの。「十方微塵世界の」で大宇宙の孤独が感じられる。親鸞聖人のリアリティがある。リアリティを出すところに詩的言語のアドバンテージがある。ポエムが夢にしか思えないのは書き手が悪いから。

十方微塵世界はなんとなく『華厳経』に出てくる微塵っていう表現かなあと感じた。全然声明はわからないが、たまに和讃の繰り読みを聴いて、いいな!と思う。そういうのが和讃の魅力ではないかなと思う。人の声で聴くというのもいいのかもしれない。

前半の質問コーナーに戻って、共振だよな。和讃は共振が起こることがあるんだ。