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『親鸞和讃』を読む「弥陀の名号となえつつ(1)」 瓜生崇師

2022年3月31日(木)19:30 真宗大谷派大津別院
『親鸞和讃』を読む ―弥陀の名号となえつつ(1)― 瓜生崇師

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【質問コーナー】
★真宗にまったく関係がない方が瓜生師の法話について批判的なnoteを書かれている。
・瓜生師は神秘体験を否定しているが、お経の中の釈尊の神秘体験を否定し、お経を否定していることになる。
→神秘体験は、それが同じ者かを確認することができない。神秘体験は個人的なもの。その人一人のものになる。それは等しく人を救っていくものにならない。
一人の境地や体験から出た真理ではない。
無量寿経は体験からでたものではない。こころや言葉の世界でなんとかつむいでいこうという2500年の営み。終わらない営み。ありとあらゆる人が仏道につながっていく。だから体験じゃない。
真実は一体何なのかと向き合い続けたあゆみが仏教。仏説だとかどうが正しいかどうかの基準ではない。
・仏教を聞いて成長することもある!
成長をするということもあるし、性格が悪くなることもあるし、それは縁次第。

自分も興味本位から仏教を聞き始めていたころに反発するところもありながら聞いていた。でも結局その反発するところが大事だったりするんだよな。そして「だいたいの人が持っているだろう世間のものさし」で語ろうと思うのだけど、聞いているうちに「そのものさしが自分だけのサイズ」でることに気が付いたということもあった。
こういう質問、悪くないと思う。

【弥陀の名号となえつつ】
「弥陀の名号となえつつ
  信心まことにうるひとは
  憶念の心つねにして
  仏恩報ずるおもいあり」(冠頭讃【真宗聖典】

冠頭讃:浄土和讃にいれない。入る前の和讃。
号:昔は號と書いた。右に虎。ガオーっていう意味がある。
名号:阿弥陀さんの名告り。曽我量深は、阿弥陀仏について、「阿弥陀さまは南無阿弥陀仏と名告っておいでです」と言ったことがある。
名前:それそのものではないと思う〈われわれ〉。曇鸞大師は、名(南無阿弥陀仏)そのものが法(真実)であると言い切ってしまう。
   仏教では迷いのこと。名前のついたわたしの普遍の姿はどこにもない。無我。

わたしはどこにいるのか。わたしがいるのは、わたしを見ているひとたちの中。関係性の中に存在する。縁起。わたしと相手のどっちも空だが、縁によって起こった者がわたし。変わらないものではない。つぎつぎと生まれて消えていくものをわたしと勘違いしている。なぜこういう勘違いをするのか、縁起によって起こったものをわたしと勘違いさせているのは言葉。言葉の世界に生きている。自分の心は言葉でいっぱい。

【仮名】(仮説、戯論)
名前がついたときに実体として認識する。すべて名前によって空であり縁起に過ぎないものを実体化して迷っていく。

穢土の仮名人、浄土の仮名人 (曇鸞大師) 

これはもう、みんな名前が南無阿弥陀仏なんだ。

十一願 ここに生まれたら、必ず本当の悟りに目覚める(世界としての浄土)
    西の遠くにあるように思う世界
十二願 無量光
十三願 無量寿  このふたつがあらゆるところに満ち満ちて照らす。
境界を破壊して、宇宙のそのもの姿になる。浄土=無分別・空になる。
十七願 諸仏称名  阿弥陀さんがわたしは名になるといった願い。
諸仏は法藏菩薩はすごいことを考えていると讃嘆(ほめたたえ)、南無阿弥陀仏(という名前)を称えた。わたしたちは真如は拒絶できるけど、名(言葉)は拒絶できない。
闇:光がなくても音は聞えてくる。言葉で迷っているから言葉自体を拒絶できない。

世界に満ち満ちている諸仏の南無阿弥陀仏、たまたま衆生のわたしたちに聞えたものを衆生が伝えた。われわれのこころに飛び込んでくる。

阿弥陀さんはわたしのことを呼ぶ、わたしは南無阿弥陀仏と阿弥陀さんを呼ぶ。
如来の願いが南無阿弥陀仏を伴ってひとつになる。南無阿弥陀仏の主となる。

「弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり。」
(『蓮如上人御一代記聞書』【真宗聖典】900頁)

親鸞聖人は、十七願を大悲の願という。わたしに南無阿弥陀仏と申してくれ、わが名を呼んでくれという根拠である。わたしは阿弥陀さんの願いに動かされて、南無阿弥陀仏と呼ぶ。互いに実体がない仮名の存在が一つになっていく。この願いが、わたしと阿弥陀さんの間にある弥陀の名号。

ここは仏仏相念で法蔵の願いが諸仏に伝えないと、わたしのところにはこない。諸仏からわれわれに伝わったんだ。
最近、十七願がすごいなと思う。法藏菩薩が諸仏の願いをお聴聞したから仏仏相念でつながったときに諸仏が法蔵の願いをりかいし、南無阿弥陀仏を称えだす。それがきっとこの世界に満ち満ちているのだ。名號だもの。凡夫の自分はいつもは気が付かない。でもふとした時にそれを知る・感じる。呼び声に南無阿弥陀仏と阿弥陀仏を呼び返す。
浄土真宗LIVE!からの続きみたいだ。南無阿弥陀仏。名号。これなんだ。これが聞こえたということなんだ。聞其名号。