如是我我聞

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ほどける仏教「ごまかさずに聞きたい浄土の話」 瓜生崇師

2022年4月2日(土) 13:00~
ほどける仏教「ごまかさずに聞きたい浄土の話 」瓜生崇師

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【阿弥陀経】
・如是我聞/我聞如是
 わたしはこのように聞かせていただきました。
 お経はお釈迦様が作ったものではない。お話を聞いた人がこしらえたのがお経。聞いたものの責任によって作られたものだといっている。
 話したことと聞いたことは受け取りが違う。いろんなお寺でお話をして、感想を聞くと、自分が話したかったこととみんなが思ったことはずいぶん違うなと思った。話した内容と聞いた内容が違う。わたしが話した話はひとつだけど、ここにいる人数だけ受け取りが違う。
 話した内容をそのまま聞かれるわけじゃない。聞いてる人が自分の話したことが10だとすると、20受け取っていると思うことがある。
 お釈迦様の口から阿弥陀仏や極楽浄土という言葉は出てきてない。お釈迦様が亡くなられてから400年から500年後に、後の人々がお釈迦様の真意を教えの中から深めていって掘り出してきたもの。これは想像で付け足したフィクションではない。お釈迦様の悟りの世界にわたしたちが目覚めていけるか考えた人たちの思いの結晶。
 仏教はお釈迦様が説いたものがすべてではない。その教えを受け継いだ人たちが深めていったもの。
 如是我聞=われ=わたしのこと。

ああ、感じたとか思ったのじゃないか。聞いたなのか。それが大乗の流れに参加するということか。

・祇樹給孤独園(祇園)
 給孤独園長者(スダッタ) いろんな人に施しをしても、限界があると気がついた。
  衣食住に充ち足りていたらすくわれるというものではない。
 人は如何しても解決できないさみしさを抱えている…とお説教したお釈迦様の話をきいて、道場を開きたいと思った。
 祇陀の持っていた土地がよかったので譲ってもらおうとしたが、うんといわない。この土地に金貨を敷き詰めたら譲ってやる(諦めさせようとする)というが、スダッタは金貨を敷き詰め始めた。話をきいた祇陀は共に土地を寄進する。

【お弟子たち】
・周利槃特(しゅりはんどく)
自分の名前を忘れるほど覚えることが叶わなかった。背中に名前を背負った。
名荷:周利槃特の遺体の側に茗荷の花が咲いたと言われ、茗荷を食べ過ぎると物忘れがひどくなるといわれている。
兄・摩訶槃特がお釈迦様の弟子で、自分も弟子を志したがみんなに反対される。みんなと比べて劣っているから修行が出来ないんだと泣いている周利槃特にお釈迦様が声を掛ける。ちりとりとほうきであらゆるところを聖語「ちりをはらわん、あかをのぞかん」といいながら掃除しなさいという。それで悟ることが出来た。
・阿那律(あぬるだ)
お釈迦様のお説教中に一瞬寝てしまった。その後二度と寝ませんと誓う。24時間寝なかったので失明する。それにより悟る。
 目が見えないので、「針に糸を通す功徳を積みたい人はいませんか」と尋ねたら、ある人が糸を通してくれた。それはお釈迦様だった。「もう悟っているのにさらに功徳を積まれるのですか?」と驚く阿那律。お釈迦様は、仏になったならないに関係なく、功徳は常に積んでいくものだぞといわれる。

なんで自分はこんなに阿那律のこのエピソードが好きなんだろう。やっぱり自罰的要因で盲目になってから悟ったというところかなあ。なんか哀しいじゃないか。でもその哀しさを越えるものが彼にあったのじゃないかと自分は勝手に思っているのだ。

いろんなお弟子と1250人の比丘衆と一緒にいた。その中で一人の弟子に声を掛ける。

【舎利弗】(シャーリープトラ)
舎利弗という言葉がたくさん出てくる。38回書いてあって、呼びかけているのは36回。
お釈迦様より年上で、バラモンの出。カーストの最高位。人は出自で、生まれによって勝ちを分けることがある。サンジャヤの元で哲学を学び、先生を超えても、人間が救われることにはならないと考え続ける。そのときにお釈迦様が「人間は生まれでバラモンなのではなく、行為によってバラモンに成るのだ」という話を噂で聞いて舎利弗は悟った。
舎利弗は250人の弟子と共にお釈迦様(下位のクシャトリア)の元にいった。これは当時では衝撃的な出来事。
智恵第一であり、統率力があり、教団を継ぐと思われていたが、お釈迦様の前に亡くなった。
舎利弗はお経の中で何度も呼ばれても返事をしない。

お釈迦様は舎利弗にいう。「阿弥陀さんは、西のずっとさきの極楽でいま現在ここで仏法を説いていらっしゃる。なぜ極楽というかというと、苦しみがなくて楽しいことしかないところだ。」
これって本当の仏教か?「一心不乱にお念仏を称えたら、阿弥陀さんがやってきて浄土に生まれさせてくれるよ、そういう見に定まるよ」といっている。なぜ子供だましのようなことを舎利弗にいうのか。
お釈迦様の父親の浄飯王もお釈迦様にお念仏を称えろと言われて、他の弟子に言うようもっと高度なことを教えてくれと怒るエピ。
舎利弗の沈黙は、「なんでわたしにこんなおとぎ話みたいな話を・・・?」という意味かもしれない。

【幸】
これは手かせが漢字の元になっている。殷の時代、戦争で手かせがつけられたということは、生き埋めで殺されないということで生きられるという意味があった。殺されるよりはましということ。われわれの幸福は比べて生じてくるということ。苦しみのないところに幸せはない。
苦しみがなくって幸せな世界とお釈迦様がいったことをなんでだと思っていたと思う。
お釈迦様のお悟りがいかなるものだったかを見ていかないとわからない。
お釈迦様の悟った一切平等。自分でいいものとわるいものに分けて苦しんで生きているのがわたし。ほんとうはいいものもわるいものも、ただしいものもまちがっているものもないと気がついた。煩悩はいいものに執着していく。
わたしたち、この教えを聞いてそうだなと思っても自分の苦しみなんて亡くならないよね。お釈迦様はこのことが本当に他の人に伝えることができない。誤解されるだけだからやめようと思われた。涅槃に入ろうとされた。

【梵天勧請】
梵天(人類代表)が涅槃に入ろうとするお釈迦様にみんなに説いてくれと懇願する。お釈迦様は誰もわかってくれないという。梵天はお釈迦様に反論する。そこでお釈迦様は、一人で涅槃に入るのは本当のすくいじゃない。迷いの世界にとどまり、われわれと同じように迷って苦しんで教えを説き続けた。

今日は岩波文庫の『ブッダ 悪魔との対話』で梵天勧請のところを読んでみた。いいなあ。いいぞ。自分で読んだらまた違う。

【いまここで説教されている】
西のずっと遠くに仏様がいるといっているのに、いまここで説教しているという。どっちやねん。
浄土には入れたものはすくわれて、そうじゃないものはすくわれないというのであればユートピアでしかない。でもその方がわたしたちにはわかりやすい。
お釈迦様は、法藏菩薩が浄土を作ったけど、無限の光と無限の命を与えたと説明される。これにより隅々まで照らされる。それにより境界がなくなり、わたしに届くはたらきとなる。
「三悪道を区別するなまえがない」名をつけることで区別・分別・差別している。
例)白人、黒人、黄人 不善の名。
浄土には鳥がたくさんいてお説教している(畜生なのに)。だから、区別する名前がないということ。
舎利弗も気づいていったと思う。わたしたちがわかるように説いているだけではないかと。

これ最近、十六願との関係でビンビンくる。悪い「名前」がないんだぜ。

【声聞】:師匠について教えを聞いて独りで悟る者
極楽には声聞がたくさんいる。菩薩(すべての人の救いが自分の救いだと目覚めた者)もいる。一堂に会して仏法をもとめている世界だ。舎利弗にとっては大ショックだったと思う。舎利弗は声聞の代表だった。頭がよい人だった。それに悩んでいた。
仏教はすくわれるということが落とし穴になっていく。
これ、舎利弗のことだと思って欲しくない。われわれも声聞だ。仏法聞いて自分がすくわれたというのが一番。他の人もという思いがない。わたしは菩薩になれない。おれが救われたいというのが抜けない。
「小慈小悲もなき身にて
  有情利益はおもうまじ」(『正像末和讃』愚禿悲歎述懐5【真宗聖典】507頁)
親鸞上人もこう吐露されている。
舎利弗は声聞であることがこわかったと思う。お釈迦様はみんなともとめていく教えだよ、みんなで励まし合ってみんなで聞いていく。これが大事だといっている。そんなこといわれても、迷いの世界にとどまって道を求めていくことはとても怖い。自分が地獄に落ちるのではないかと不安になる。
お釈迦様は、みんなで求める道だ、あらゆる宇宙の仏さまが護ってくれるとおっしゃる。舎利弗よ、いま話したことはとても信じることが出来ないことかもしれないが、菩薩の道はこういうことなんだ。
舎利弗という知恵者に説かれたものではない。これは凡夫のためのお経だと善導大師はおっしゃっている。ユートピア、安楽の世界でないとわれわれは知ることが出来なかった。しっかり読んだらお釈迦様の悟りの深いことがわかるんだ。

自分はやっぱり声聞だと思う。舎利弗みたいに呼びかけられてその沈黙の中でお釈迦様の真意をくみ取っちゃったり出来ないけど、「舎利弗」と呼びかけられるそれ自体が自分への呼びかけに思えるのだ。そのときわからないし、頭でそんなことあるかい!と思っても、声聞であるわたしが菩薩やそのほかの人たちと一緒に求めてすくわれるってわるくないとぐっと思わされてしまうのだ。

最後質問コーナーがあったが、冒頭で瓜生師が話されていた「わたしが話した話はひとつだけど、ここにいる人数だけ受け取りが違う。」がまさに体現されるものだった。自分からしたら、今日のお話を聞いていてなぜその質問になるのか全然わからなかったが、多分お話とは関係なくずっとご自分の中にあるものが質問になるのだろう。としか言いようがない。
もとめられている以上の回答をされているのが圧巻だった…。