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本光寺 歎異抄を読む(19)(瓜生崇師)

2022年4月11日(月)19:30~21:00
『歎異抄を読む』19 第三条 本光寺 

shinshuhouwa.info

第三条
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。」
(『歎異抄』第三条【真宗聖典】627頁)

善人ですら浄土に生まれることができるのだから、悪人はなおさらである。普通世間の人は、悪人ですら救われるのであるから、善人はなおさらであるというだろう。いったんそうだなと思うかもしれないが、阿弥陀さんのすくいのこころに背くものだ。
自分の行動を頼りに善をなす、徳を積んでいく。そういう人は阿弥陀仏の本願を頼むこころに欠けているから阿弥陀さんの本願のお目当てではない。しかし、その自力のこころを翻して他力をたのめば本当の浄土往生を遂げることができる。
煩悩でいっぱいのわたしは、どんな功徳を積んでも善をしても生死を離れることが絶対ありえないということを哀れんでその本願を起したこころ、悪人の為なのだ。他力をたのむ悪人というのはもっとも浄土往生の正しい種なのだ。だからこそ、善人ですら浄土に生まれられるのに、悪人がうまれないということがあるだろうかとおっしゃる。

【自力と他力】
他力本願:人の力をたよりにすること(一般的な用法)。
他力:仏教の浄土真宗では阿弥陀さんのはたらき。本願力。
   元は 利他力
他利利他:曇鸞の言葉から引かれている。
・他利:他によって救われる。自分の力でなく如来のはたらきですくわれる(わたしの方から見た)
・利他:他をすくっていくはたらき(阿弥陀さんから見た)阿弥陀さんが「わたしたち」をすくっていく力
親鸞上人はここを大事にしている。
わたし一人が目覚めてもすくいにならない。あらゆる生きとし生けるものをみんなすくうのがわたしの悟りである。
法蔵の成仏は一番最後。

これ、なんか一番最後がわたしと法藏一緒という気がする。

・自力:自分の力ですくわれる。

【自力作善】⇔他力本願
わたしがわたしの力によってすくわれる。
善人=自力作善 ぜんぜん悪い感じがしない。たくましい感じがする。
悪人=他力本願 かっこ悪く感じる。

努力して叶わない夢はないと校長先生が挨拶した時代に生きましたが、そんなことないって40年も生きていると気がつきますね。
十方衆生に誓われているのは十八、十九、二十願。
「一九 たとい我、仏を得んに、十方衆生菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。」
(『無量寿経』【真宗聖典】18頁)
みんな尊い菩提心をおこして、いろいろな功徳を積んで、わたしの国に生まれたいと願いなさい。命終わるときに、たくさんの菩薩や天女などと一緒にあなたを迎えに行く。そうでなければわたしは仏になりません。
十八願は仏さんが迎えに来るって書いてない。阿弥陀さんの本意はこの十九願にあるとみんな思った。十八願にがんばることが書いてない。
良源:比叡山の横川の外れに廟がある。最澄の継ぎに来るような人。この人が十九願を本願だといった。

歴史的にはそう流れなんだ!でもいま読んでもそう感じる。阿弥陀さんが迎えに来てくれるのはすごそうだもんな。

源信:十九願は方便であって本当の願いではないといった人がいる。
   平安時代の僧で『往生要集』を記した。
   十九願の往生は「懈慢界」だという。怠け者だと。方便の浄土で、教えを聞く事も他の菩薩に合うこともない。仮の浄土に生まれる。『無量寿経』に書いてある。
   一生懸命に善を積むことですくわれるのは取引。これは本当の善ではない。自分の思いを満たすためのことで、善とはいわない。取引。
親鸞聖人は、小慈小悲=慈悲でもなんでもなくて、自分だけが先にすくわれていきたいというものだという。雑毒の善

誰かを助けたい、すくいたいというのは結局自分の為というのは、仕事をしていると本当にそう思うことが多いのだった…。

ひとりひとりの生き方、功徳に応じて阿弥陀さんが迎えに来るのなら、独り独り違うから、同じ浄土にならない。差別の世界。阿弥陀さんが本当に作ろうとしたのか。

貧しい時代に生まれたら、人を殺したり盗んだりしたかもしれない。宿業による。その人にもともとあるもので自分ではどうしようもない。いいことをできるかどうかは自分にはどうしようもないことだ。

菩薩道って自分のなかに見いだせない。卑下しているのではなくて、そうだと感じる。

双樹林下往生:十九願のすくい(善導大師)

       お釈迦様が死んでいく姿のこと。
『法華経』にはお釈迦様は修行を絶対完成させないと書いてある。お釈迦様は永遠の存在で、みんなをすくい続ける。自分の悟りの完成を後回しにするのが本当のお釈迦様の姿。
80歳の時に涅槃に入っているのは、方便の姿。ずっと生きていたら、自分を頼りにしてしまうから、涅槃の姿を見せた。迷いの世界で永遠に救い続けるのが本当のお釈迦様の姿。迷いの姿をあとにして涅槃に入るのは自分勝手なすくいということ。
方便というのは、阿弥陀さんの真意ではない。一生懸命やっているわたしの姿は仏さまからみたら怠け者の姿。

怠け者かあああああ。

今日の自力作善のお話は、自分の中で会社員として働いていることと、仏教を聞いていることがすごく真反対のことをしているようで悶々としたものを抱えている自分に新しい視点を気づかせてくれた。自力でしかいられないということは、人間として変わらないものなのだと。その対象が生きるための仕事なのか、仏道をもとめることなのか、自分は常に目の前にあるものを天秤に掛けて判断、処理していくものでしかないのだと。この気づきは自分のちぐはぐな感じを紛らわしてはくれたけれど、結局は解決のしようのなさが目の前に広がっただけなのだが、それでもこれを聞けてよかった。

 

◆本光寺

 

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