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『親鸞和讃』を読む「弥陀の名号となえつつ(2)」 瓜生崇師

2022年4月13日(水)19:30 真宗大谷派大津別院
『親鸞和讃』を読む ―弥陀の名号となえつつ(2)― 瓜生崇師

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【質問コーナー】
★親鸞聖人が信心いただいたのは晩年ではないか という質問
わたしにはそれがわからない。わたしが親鸞聖人の思いがこうだと思うのも盛大な勘違いかもしれないと思う。かつては自分は信心をいただいた、親鸞聖人の考えられたことがわかったと思ったことがあったが、どんどんわからなくなった。
親鸞聖人も20年教えを伝えた関東の御同行がわからなくなって尋ねてこられたこと、自分が法然上人に聞いてきたことも、本当にわかっていたのだろうかと、これでよしと思ったことがあったか、それが続いたのかというのは読めば読むほどわからなくなる。
わからなくてもやめることなく聞いてもとめているのだけど、これはこうだぞとおっしゃる親鸞上人より、おれもわからんという親鸞聖人がいいな。
『法華経』の中に、お釈迦さまは生涯悟りを完成させないと書いてある。悟りの世界に入らないでいると書いてある。亡くなるというのは方便だという。親鸞聖人は久遠実成の阿弥陀仏として釈尊の姿を受け取られる。
親鸞聖人はすくいがわかった!とおっしゃるところもあるし、自分の機を歎いているところもあるし…。でもすくいはこうだと説き続けた人ではないと思う。生涯さまざまな挫折をし、ぐらぐら揺れて行かれた方だという。そうでないとおれがすくわれない。そうであってほしい。

この質問コーナー後半のところはまとめたらなんでもないのだけど、やっぱり実際聞いて欲しいところ。
親鸞聖人がどう『思われて』いたのかということは、結果誰にもそれが正しいと証明することは出来ない。ただ、書き残されたものをみるにつけ、自分たちと同じ迷っている人間味を感じずにはいられない。あるときはこれしかないと声高らかにおっしゃったり、あるときは自分がいかに煩悩に充ちたものであるかを吐露されたり、絶対不動の親鸞聖人ではない。自分もそうだけど、「親鸞聖人が思っていたこと(書かれていたこと)が正しい」と思っていろいろな本を読んだり、お話を聞くのだけれど、結局それは自分の世界での解釈でしかない。ただ言えるのは、自分で読むというのは、親鸞聖人とわたし、親鸞聖人を通しての本願とわたし、お聖教とわたし、本願とわたしという向き合う関係性になるのだと思う。「○○先生がこういっていた」で終わったらそれは違うことなのだと昨日ふと思った。自分が、読む。

 

「弥陀の名号となえつつ
  信心まことにうるひとは
  憶念の心つねにして
  仏恩報ずるおもいあり」(冠頭讃【真宗聖典】478頁)

 

【信心をまことにうる】
・信心 信ずるこころ。なにを?本願。
・本願文では 至心 信楽 欲生我国
阿弥陀さんがすくってくださるといっても、当人のわたしがだからなに?っていっていたらわたしのすくいにはならない。その時点で空想みたい。信じるというのは宗教の出発点。信じると言うことがなかったら、宗教は成り立たない。
信じるとはどういうことか。真面目に考えたらわからなくなってくる。
浄土に往生する、仏になるというのが自分にとってどういうことか想像するしかない。
そのまま信じるというと、聞く人の人数分のそのままになる。いままであった信心をいただいた人はみんな違うことをおっしゃる。自分の中で組み立てた浄土や仏を信じている、自分のこころから一歩も出ていない。こころもおよばれずこころもたえたりとおっしゃっている。われわれがそのままだと受け取っているのは言葉とこころの世界。信じているのはわたしのこころ。阿弥陀さんが『おまえはうたがいがない』といってくれるわけじゃにですよね?判断するのは自分。いくら自分で言っても自分の心をたのみにしているだけ。
法然以前の浄土教は仏を観るということだった。観経で韋提希は仏さまを観たけどそれで終わらない。無生法忍を得た!でおわりでない。韋提希はお釈迦様がいたから本当の阿弥陀さまだとわかった。
「わたしはお釈迦様のお陰で阿弥陀さまと会えました。あなたのいない世界の人はどうしたらいいのでしょう。」
自分の思ったことも確かめようがない世界。
そうすると、この信心ってぼくらから遠い話になってしまう。

【至心】本当のこころ
「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】225頁)
お友だちと仲良くする方法=どれだけ相手に配慮して自分をきちんとコントロールするか。
よく考えたらぼくらはこういうことばっかりやっている。人格者というのはどれだけこころをコントロールできるかということ。自分の心の中は見せられないものばかりだ。
阿弥陀さんがありがたいという思いが微塵もないのにみんなの前で話す。これだんだんとおかしくなっていく。親鸞聖人は、『唯心鈔文意』で『もし念ずることあたわずば』不浄説法について触れている。
阿弥陀さんは法藏菩薩だったときに一瞬たりともまことじゃない事、真実でないことはなかった。名号がまことであるから疑いが交わることはない。
名号=至徳の尊号
わたしが不実であるから100%の真実がうまれる。わたしがなかったら100%の真実はない。まったく疑いのない100%の南無阿弥陀仏が回向される。
自分の中に一ミリの真実がないというのが100%の南無阿弥陀仏がある証拠。二つは別物ではない。ひとつだから至心がわたしの救いになる。

これは再度聞いて改めてガツンときた。三心が自分のことだとなるのは、すべて阿弥陀さまの側の話で1%の本当のことがないわたしがいるから真如がある。その名号の中に元になったわたしもいるということ。すべては南無阿弥陀仏。わたしの仮名、となりのひとの仮名、真如の世界から言葉となった如来、南無阿弥陀仏。そうかと思って聞いても本当か?が出てくる。聞いた瞬間広がることがある。

 

【信楽】うたがいないこころ
「次に「信楽」というは、すなわちこれ如来の満足大悲・円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし、かるがゆえに「信楽」と名づく。すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繫縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを「利他真実の信心」と名づく。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】227頁)

至心を体とするからこれも名号=南無阿弥陀仏
阿弥陀さんのこころなら全然関係もないじゃないか。自分にかけらの真実もないから、南無阿弥陀仏は生まれない。

南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏だけで南無阿弥陀仏になりえない
わたしがいないと名号は生まれない。南無阿弥陀仏の中身はわたしでいっぱいだ。どうやっても自分の心の中で浄土をひん曲げている。まことのこころのないわたしだから、南無阿弥陀仏が差し向けられた。ふたつであってひとつのもの。

【欲生】
「次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。
 『経』(大経)に言わく、至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗正法とを除く、と。
(『教行信証』信巻【真宗聖典】231頁)

大乗仏教ではひとりですくわれていくのはありえない。しかし他の人に回向が出来ないという。
自分というものがすくわれていくことしか考えていない。ずっとわたしを呼び続けている声が、わたしに届いている。

【疑いのこころが交わることがない】
なぜ何度もいうのか。南無阿弥陀仏の呼び声はわたしにいま聞えた。南無阿弥陀仏が聞えたことについて疑いがない。これが親鸞聖人の信心感。こういう形でなかったらわれわれに信心は成り立ちにくい。
聞其名号:
どうやっても仏道修行が出来ない自分がどうしたらいいか悩んだ。
自分がすくわれるかどうかは問題でなくなる。法然上人は真如の世界は自分を拒まない
ほんとうに信じられんわたしに気がついたらそこをずっと見つめていくのが大事
まったく信じることができないわたしが南無阿弥陀仏という本願の中にいる。

「「聞名念我」というは、「聞」は、きくという。信心をあらわす御のりなり。「名」は、御なともうすなり。如来のちかいの名号なり。「念我」ともうすは、ちかいのみなを憶念せよとなり。諸仏称名の悲願にあらわせり。憶念は、信心をえたるひとは、うたがいなきゆえに、本願をつねにおもいいずるこころのたえぬをいうなり。」
(『唯信鈔文意』【真宗聖典】551頁)

十七願でまわりがわたしに南無阿弥陀仏を思い出させる。なんかしらんけど南無阿弥陀仏につかまれている。憶念。わすれて、放り投げて、背を向けるような人間だから、すべての仏をして南無阿弥陀仏と呼びかける。

 

十七願というのは自分にとってすごいなと思うのだ。諸仏が称名してそれが凡夫に伝わり、自分に南無阿弥陀仏が届いたのだ。これ書くと陳腐な感じがするけど、ああそうだなと身を以て思うのだ。いまこうしてPCに向かってブログを書いているわけだが、こうしている間にも本当は南無阿弥陀仏が満ち満ちているわけだけど、自分にはわからない。そんなことを思ってみる。
自分も数年前まではそんなことを思って見ることもなかった。でもここまで聞いてきたことを振り返ると、ある日突然誰かの南無阿弥陀仏を聞いてから、白道が自分の足下にきていたというところまで思いをいたす程の知識は得たのだろうと思う。そうやってありがたいと思うことも出来る。でも自分はそういうことではなくて、いま聞いていることをもっと大事にしなくてはいけないな。ちょっと自分は聞くことに傲慢になっていたと昨日の夜急に感じたのだ。
これは復習のメモである。でも実際に聞くときは、一生懸命…じゃないなあ、なんといったらいいのだろう。聞き始めの時のように、どっちに行くかわからない自分のままで聞きたいなと思う。

◆シリーズ過去動画

luhana-enigma.hatenablog.com

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