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京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.9『化身土巻』①(瓜生崇師)

2022年4月27日(水)19:30~
京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.9『化身土巻』① 祇園舎 瓜生崇師

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【化身土】
特殊な巻。顕浄土方便。
・方便(ウパーヤ):真実に導く
・十九願と二十願を前半部分で取り上げる。前半の最後にいまは末法かどうかについて書かれている。
・大谷派の方が真仏土や化身土を重視する。

「謹んで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなわち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなわち疑城胎宮これなり。」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】326頁)

懈慢界:本当に破られなければいけないものがそのままになってしまっている。
疑城胎宮:十九願、二十願で説かれる疑いは、阿弥陀さんのすくいを疑っていたらすくいはない。現実のすくいにはならない。ここでいう疑いは、わたしが阿弥陀さんのことを信じているという疑いで、気づいていない分やっかいで、破られない。自分の力で破れない。自分で気づく疑いはたいしたことない。
真身観
「無量寿仏の身は百千万億の夜摩天閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ、六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転して、五須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし、青白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す。須弥山のごとし。かの仏の円光は百億の三千大千世界のごとし。円光の中において、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一一の化仏にまた衆多無数の化菩薩まします。もって侍者たり。無量寿仏に八万四千の相まします。一一の相に、おのおの八万四千の随形好あり。一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。」
(『観無量寿経』【真宗聖典】105頁)
これ想像したらすごい光景だな…。限界を感じる…。

方便だから間違いだと言うことではない。大事にしてきたもの、道筋がちがう。そういう人たちをすべて導く為の入り口を化身土で明らかにされた。

【十九願】
「設い我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、我が国に生まれんと欲わん。寿終の時に臨んで仮令大衆と囲遶して、その人の前に現ぜずは、正覚を取らじ、と。
(中略)この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。『観経』の定散九品の文これなり。」(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】327頁)

十八願が本願だといっても十九願のように、仏さんに迎えに来てもらえるというようなのはわれわれにわかりやすく、やっぱりこういう捉え方をしている。
比叡山横川の良源はこれが一番大事だと言ったことがある。
・定散九品:人の生き方ですくわれ方が違う。わかりやすい。
 →善導大師はこれに疑問を感じる。九品唯凡だといった。これはたまたまのことだ。われわれの正体は下品にあると言った。
 →法然上人は、これらの往生は全部同じ浄土だといった(問題発言)。
  解脱貞慶上人に批判される。浄土門すらわかってない!

「阿難、もしかの国の人天、この樹を見るもの、三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆえに、本願力のゆえに、満足願のゆえに、明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり。」
(中略)また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・明月摩尼・衆宝をもって、もって交露とす。その上に覆蓋せり。内外左右に、もろもろの浴池あり。あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至、百千由旬なり。縦広、深浅、おのおのみな一等なり。八功徳の水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味い甘露のごとし。」
(『無量寿経』【真宗聖典】35、36頁)
道場樹:仏道をもとめていく最高の環境。なんの苦しみも迷いもなく邪魔もなく仏道をもとめていける世界。
これを方便化身土と親鸞上人は言い切ってしまう。多分親鸞聖人は凡夫の迷いの中でふらふらしながらもとめるのが本当に仏道に遇われるところだ思われていたのではないかと感じる。

「たとえば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あらん。種種に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなわちかの獄の中に内れて、繫ぐに金鎖をもってせん。乃至 仏、弥勒に告げたまわく、このもろもろの衆生またかくのごとし。仏智を疑惑するをもってのゆえに、かの胎宮に生まれん。」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】328,329頁)
しっかり聞いて教学をしっかりやってめちゃくちゃもとめたらすごく居心地がいい。でも本当の底のところで疑っている。最も大事なところが破られていない姿。

親鸞聖人が乃至のとこで省略されたところ
「このもろもろの王子、むしろかの処を楽いてんや、いなや」と。対えて曰さく、「いななり。但種種の方便をしてもろもろの大力を求めて自ら免出せんと欲う」と。」
(『無量寿経』【真宗聖典】83頁)

お釈迦様はこういう最高の環境にいたいと思うかと聞かれた弥勒が、「そんなところ生きたくないですよ!」と応えたところ。
親鸞聖人は、これを否定することがとても出来ないと思ってカットしてしまう。

「しかればそれ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門の中に、第十八の願は「別願の中の別願」なりと顕開したまえり。『観経』の定散諸機は「極重悪人唯称弥陀」と勧励したまえるなり。濁世の道俗、善く自ら己が能を思量せよとなり。知るべし。」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】330,331頁)

観経は本当のところをいったら、南無阿弥陀仏と称えろということだ。いろいろ書いてあるが、いろんな人を導くためのもの。ひとつも間に合わないものに南無阿弥陀仏と称えろといっているのだ!

【二十願】
南無阿弥陀仏をわれわれが受け取ってもわれわれはこうなる。

「それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。真門の方便について、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。「雑心」とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と曰うなり。「定散の専心」とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくるなり。」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】346,347頁)
表向きは本願によってすくわれる姿を見せているけれど、一生懸命善をしてすくわれるすがたを南無阿弥陀仏に置き換えているだけだといっている。阿弥陀さんとの取引。疑っているから取引をする。
罪福はいいことをしたらいいことが、悪いことをしたら悪いことが返ってくると思っているこころ。

「設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。
(中略)『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、無量国の中の所有の衆生、我が名を説かんを聞きて、もって己が善根として極楽に回向せん。もし生まれずは菩提を取らじ、と。」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】347、348頁)
如来会はサンスクリットに近いといわれている。南無阿弥陀仏を自分の手柄として取引してすくわれようとする姿だという。…で、なぜそういうことになるかの考察。

「信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求にあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて「信不具足」とす。」(涅槃経)
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】352頁)

推求か。これでよしで破られてない。聞いただけで思っていない。なるほどなあ。これはそうだな。仏道を行かれた人を信じない。これもある。だってその人が本当に仏道をいっているかわからない。たまたま遇った人にそう感じることはあることもあるけど。

「いかなるをか名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦にあたわずして他のために解説するは、利益するところなけん、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、と」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】353頁)

・十二部経:お釈迦様の教え。
自分の都合のいいところだけピックアップして全部を見ない。仏教はこうですというわかった顔はできないということを親鸞聖人はおっしゃっている。自分自身への反省もある。

うわあ。これはやっている気がする。無意識のうちに。

「悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】356頁)
一生懸命やっている人が、南無阿弥陀仏を自分の手柄として阿弥陀さんに差し出している。だから仏智を悟ることもなく、すくわれることもないと親鸞聖人がおっしゃる。
それに絶望することはない。こういう形でしかもとめられないわたしにこういう形で説かれたという。

厳しい。これ厳しいわ。自分のことだから。

「ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。」(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】356頁)

・万行・諸善の仮門:十九願
・双樹林下往生:お釈迦様の往生=方便だから(『法華経』より)
        お釈迦様は自分の悟りを完成させないでいるのが本当の姿。
仏教を信じて信心をいただくなんてスタートにすぎない。
われわれの仏道も完成しない。
・善本・徳本の真門:二十願 難思往生

われわれは十八願のを聞いても十九願二十願の方便の世界を抜けることは出来ません。十八願があることによって十九願と二十願にいることがわかることによって、それが方便の願いに転じ変わっていく。
・果遂の誓い:果たし遂げる。この願いは方便の世界にいることを知らせて真実の世界に行くことを果たし遂げる。

これは頭がフル回転だった。方便について。
自分はぶっちゃけたまに法話でされるような肉感的阿弥陀さまが超絶苦手である。あったかいとか抱きしめるとか手の中にあるとか。
でもここの話を聞いていて、それがいいという人もいるからの方便なんだなという気持ちも起こってきた。ただ自分は好んで聞きたいなあとは思わないのだが。
いままで十八願についてばかり考えていた自分がいた。それこそそこが二十願なんだな。でもこれずっと誰かにいわれないと自分でわからんな。ほんとうに。ひとりだとわからないな。声聞には共に聞いていく人が必要なのだ。

◆参考図書

 

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◆祇園舎

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