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光慶寺仏教講座 正信念仏偈(29)「遊煩悩林現神通」瓜生崇師

2022年5月29日(日)19:30
光慶寺仏教講座 正信念仏偈(29)「遊煩悩林現神通」瓜生崇師

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※本文はYouTubeの資料を参照
「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死園示応化」(『教行信証』行巻【真宗聖典】206頁)

至心 信楽 欲生 
親鸞聖人=わたしにはまことのこころもうたがいのないこころ、阿弥陀仏の浄土に生まれられるとおもうこころがない、かけらもないとおっしゃる。
法然上人=三心が一個でもかけていたら浄土に往けないというが、『観無量寿経』の方の至誠心、
お念仏する人は三心が備わっていくと書いてあるところもある。

自分は疑いのない心というのがわからない。どうして疑いがないってわかるのかがわからない。

法然上人が善導大師を第一にするのは、仏さまが毎晩夢の中で導いてくれたと。これを仏の直筆だと思うべしと…。なのに、真身観は余行だという。

「しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】240頁)
まことのこころも、うたがいのないこころも、浄土に生まれたいというこころがまったくないわたしがいる。そのために起された本願によって、阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって名号がわたしに聞えたということ。これは疑いようがない。浄土真宗の信心は名号がわたしに聞えたという事。阿弥陀さんが大宇宙の仏たちに伝えて、南無阿弥陀仏が宇宙に満ち満ちてわたしに聞えた。
浄土に生まれるというのは自分が破られていくということ。真理法性の道理に目覚めていくこと。浄土にうまれたら仏さまの智慧を得るから苦しむ人が見える。そして浄土をすてて迷い苦しみの世界に戻っていく。
増上縁で本願招喚の勅命を聞く。これは信楽一つに収まる。三心が収まる。

功徳の大宝海に帰入する=汝一心正念にして直ちに来たれ。今。直来。ちゃんと信じられるようになってからじゃない。
汝=阿弥陀さんが“我” 一対一。如来から呼ばれるわたし。自分が思っているわたしでない。今のわたしを救う。
・大会衆の数に入る=正定聚 わたしの浄土往生は周りが証してくれる。南無阿弥陀仏は誰かが教えてくれた。
・阿弥陀さんは衆生に直接でなく、諸仏に仏仏相念で託す。唯仏与仏の知見(『法華経』)
・南無阿弥陀仏を称えることでわたしの闇が晴れるといった人 曇鸞

無数の人が深めていった教えの中に、わたしが入る。大会衆の数に入る。
『無量寿経』を読んだら、浄土に生まれることが「大会衆の数に入る」と読めるが、凡夫が「大会衆の数に入る」なんてそんなことはないはず。親鸞聖人は今わたしたちが念仏するこの場において大会衆が成り立つとみられた。

阿弥陀仏から逃げられない。
自分もその中にはいった。いま。現生正定聚。

「弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】250頁)

「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。(中略)しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。」
(『教行信証』証巻【真宗聖典】280頁)

さまざまな形に姿を変えてわれわれのところに現れてくるものなのだ。わたしたちをすくっていくものなんだ。=遊煩悩林現神通
遊ぶというのは、深い意味があって、ライオンが鹿を狩るようなもの。仏さまは自らの功徳や救いのためにやるのではない。
仏さまは仏像のような姿ではない。わたしの隣の人、机も、椅子も、すべて共働してしていろいろな姿に変わってわたしたちを目覚めさせる。

どんな姿にでもなって、われわれに南無阿弥陀仏を称えさせる。

お聖教を読んでいるはずが今ここで聞いている自分の話として周りを見回し、大会衆の数に入るというところで自分のことだと自覚し、汝と喚びかけられることにハッとする。お話を聞くというのはそういうことの繰り返しだなと思う。お聖教の話を遠くから聞いていた自分がどまんなかにいることに気がつく。なんでかスポットライトを浴びている。

 

◆正信偈講座

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