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本光寺 歎異抄を読む(20)(瓜生崇師)

2022年5月9日(月)19:30~21:00
『歎異抄を読む』20 第三条 本光寺 

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第三条
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。」
(『歎異抄』第三条【真宗聖典】627頁)

【真実報土】
阿弥陀仏の極楽浄土はふたつある。お浄土の中に化土がある。
報土:本願によって建立された本当の浄土
方便化身土:ひとりぼっちの浄土

三界唯心:われわれは全部わたしのこころの世界にいる。ひとりひとり感じ方が全然ちがう。
自他一如:さとりを得たら他人と別れていなくて一緒なのだとわかる。わたしと無関係な者は何一つない。『維摩経』で芥子粒の中に三千大千世界が納まっている。
化土はキンキラキンで金の鎖に繋がれた独りぼっちの世界にいたいと思うか?とお釈迦様は弥勒菩薩にきく。弥勒菩薩は何があってもそこから出ますと回答したが、親鸞聖人はそこを引用していない。

自分は化土、いいなって思ってしまう。親鸞聖人もそうだったのだろうか。
心の幸せを願うことはやまないけど、自分はそんなでもないと思う。それはそんなでもない振りをしないと生きていけないからかもしれない。あくまで自分の場合だけど。そう思うと、自分の中に努力して努力して化土にいくのだっていいじゃないかという心がある。なぜなら他者と共にすくわれていきたいという気持ちが自分にないからだ。本当に思っていないから自分はそれを口に出せない。

真仮を分けていくのが大事だとみていく親鸞聖人。

「そもそも、日本において、浄土宗の家々をたてて、西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。これすなわち法然聖人のすすめたまうところの義は一途なりといえども、あるいは聖道門にてありしひとびとの、聖人へまいりて浄土の法門聴聞したまうに、うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かえりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、その不同これあり。」
(『御文』二【真宗聖典】793頁)
親鸞聖人の教えはわかりにくいから浄土宗ほどバラバラにならなかったといわれている。

十九願 自力。一生懸命に仏教を求めて善行功徳を積む。
二十願 南無阿弥陀仏ですくわれていくという願い。他力の中の自力。
    善行功徳の代わりに南無阿弥陀仏を称えているだけ。他力をたのむ。
親鸞聖人は深く問題にされている。十九願二十願はわたしの為に説かれた教えであり、十八願から出てきた。わたしはこういう形でしか仏教をもとめられない。その中でお念仏をもとめることになる。
果遂の誓い:二十願はここに留めることなく必ず目覚めさせる。

ここは自分がこれからどう読んでいくかだと思う。化土にいることを常に思わされる。それにより報土が知らされる。終わらない。

 

◆本光寺 歎異抄を読む

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