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本光寺 歎異抄を読む(23)(瓜生崇師)

2022年8月8日(月)19:30~21:00
『歎異抄を読む』23 第三条 本光寺 

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第三条
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。」
(『歎異抄』第三条【真宗聖典】627頁)

【自力・他力】
・曇鸞大師が始めに言及⇒龍樹の教えと関連している
声聞・縁覚(独覚):独りですくわれていく
菩薩:自分のすくいは後回し、すべてのひとのすくいをねがう

・釈迦入滅後の仏教:出家した人たちだけがすくわれていく宗教の姿(タコ壺化)
・独りですくわれた人:浄土で蓮の花の中に閉じ込められて仏法をきけなくなる
・無限の命と無限の光⇒浄土は場所ではない
・天親菩薩は『浄土論』を浄土の心を見て行くことは真如の世界を見て行くことになるということで観察門に力を入れたが、曇鸞大師は讃嘆門(仏の名を称える)に注目。龍樹のいう易行道だ!


仙経を焼いた曇鸞が発見した易行道。なんとドラマチックな。つながるはずのない龍樹と天親菩薩がつながった瞬間。

天親菩薩 この姿を見ていけば、釈迦の覚りの世界がわかる(主語がわたし)
曇鸞大師 真如がわたしにわかるようにこういう姿をとった。こういう姿で無ければさとりを願えないわたしのために。(他力・真如がはたらきかける)

浄土に生まれるというのは本当の仏教に思えないかもしれないが、わたしにわかるようにとこの姿をとっている。
一番奥にわたしがいる。

阿弥陀さんに南無阿弥陀仏を選ばせたのはわたしだ。黒谷できづく法然上人。
どうやっても菩薩の道を歩めないわたしのために浄土の世界が説かれた。こういう形でしか願生できない。如来は決してわたしを見捨てていないということだ。と曇鸞大師。

他力の中にはかならずわたしの姿がある。
この転換をしたのが曇鸞大師。

ああ、やっぱり「親鸞一人がためなり」のところにくるのだな。ここ一年ほど、ずっとこのことがいつもお話の最後にくる。ここで天+曇親鸞を聞くとすごい。
親鸞聖人のすごいところって、これを自分に伝えてくれたところではないかと思っている。こんなの意味がわからないと思っていた。でも、「親鸞一人がためなり」が自分のことに思えることがある。親鸞聖人の話ではなかった。

こういうところは時間をとって原典読まないといけないなあ。

 

◆本光寺 『歎異抄』を読む

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