如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

「仏さまの願いとわたしの願い」光明寺報恩講

2022年6月19日(日)10:30~
光明寺報恩講 
「仏さまの願いとわたしの願い」 瓜生崇師

shinshuhouwa.info

仏教は自分の願いを突き詰めていってもわたしの本当のすくいはないということを知る
わたしの願い:わたしのこころを満たしたい。不安や苦しみはいやだ。

仏教の厳しさ:どんなに自分を満たしても、そのちっぽけな心は独りぼっちだろ。

本を読んだり映画を観たり、それで心の中で起ったことを共有したくなるのがSNSだったりするのだけど、結局それって全然共有出来ないよなというのを最近感じる。あくまでも他者が別の体験をするだけ。それでいいのかもしれないが。

自分が自我を認識したのはいつなのか。いつの間にか出来上がってきた。

弟が生まれる前には自分がいたなあ。2歳くらいかな。

人生も夢もいつの間にか始まって唐突に終わる。それはわたしのこころの世界。
独去独来

夢のことで覚えているのは「死の恐怖」が多い。あと、肉体の苦痛。大丈夫か自分。

命がけ。有限ないのちをいまなにをして過ごしているのか。
孤独なこころを守るのに一生懸命、暗闇を抱えて生きる。最後に孤独と不安、空しさから解放されない。なにかさみしい、むなしい。

孤独なわたしの世界を破られていくこと。
『大無量寿経』
お釈迦様の説法に集まった一万二千人の人たちは、まったく同じ人生を歩み、お釈迦様と同じ徳を備えていた。
⇒じゃあお説法を聞く必要なくない?
⇒お釈迦様は法を説く人で、わたしたちはそれを聞いてすくわれるもの
⇒ここにいらっしゃる人はみんな普賢の徳にしたがっていた

同じ人生を生きた。それってもともとは自分たちはひとつということ?衆生ということでひとつということ?目覚めたらそれがわかるということ?

ありのままの姿を見せられるか。⇒お釈迦様はみた。

・梵天勧請 覚りを得たお釈迦様は多くの人が狭い自分の世界で死んでいくのを見た。そういう人を目覚めさせなかったらほんとのすくいとはいえないでしょう。あなたは広い世界を自分のせまいものにしてしまうのですか。迷いの世界にとどまってみんなに説いていこうと決意する。
・智慧:迷っているものが覚りの世界に目覚める
・慈悲:覚りの世界にいるものが迷いの世界にもどってすくう
お話を聞いていることが、お釈迦様を目覚ましている。
仏教には過去も未来もない。“今”しかない。仏さまは、過去も未来も幻想だという。今しかないと言う。今の一瞬に宇宙の歴史が全部埋まる。梵天と聞きたい問いわたしたちの心は重なる。

・普賢菩薩:いろんな仏さまのところにいって、お説教してくださいと言って回った。
 自分:聞いている人 講師:話す人 これはそうじゃないという。お話を聞きたいと集うことで初めて仏教が説かれるのだ。

・仏仏相念:鏡の中にあるように映っている。阿難が気がつく。自分で気がついた!ものすごいたくさんの願いがお前に質問をさせたのだ。同じ願いの中で目覚めていく願いを立てた菩薩の話をする。といって、法藏菩薩の物語が始まる。

つながりとか絆とかいうことをいう今のこの世の中で、あえて孤独であるということ、相手のことはわからないということをいうのは逆に言いにくい世界になったのかなと思う。

釈迦入滅後、覚りをひらいたかどうかを誰も判断できない。迷った人間がせまいこころに閉じ込められたままで大きな願いに出遇っていく。これを伝えていくのが浄土真宗。

 

覚った人って、自分が同じだと気がつくから同じ徳になるのかな。今日はそんなことを感じた。