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宮殿の中にいるのも… 親鸞和讃を読む「誓願不思議をうたがいて(1)」瓜生崇師

2022年6月29日(水)19:30~ 真宗大谷派大津別院
『親鸞和讃』を読む ―誓願不思議をうたがいて(1)― 瓜生崇師

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「誓願不思議をうたがいて 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまう」

・辺地 浄土に生まれてもなにも破られない
・懈慢 自分の中にある最後の慢心が破られない

自分はすくわれたと思ったら一番最後の自分が破られずにいる。
大乗仏教ではたった一人ですくわれていくというのが一番空しい姿。
自分が最もすくわれがたいものであるので他の人のすくいを優先していくのが菩薩の姿。

慈悲 抜苦与楽 小慈小悲もなきに身にて 小=見返りを求めるようなこざかしさ
親鸞上人は、人を助けていこうという気持ちがないという。
菩薩には闡提の意味もある(100%絶対にすくわれない)

誓願不思議をうたがいて 
⇒自分がすくわれたと「自分で思う(思議)」こと。
⇒阿弥陀の誓願の不思議はわたしたちのはからいを超えている…のを自分の心に収めて納得しようとする。

信罪福 自分にとっていいことを信じて悪いことは信じない。

疑いをはらすはたらきにあうことと、疑いが除かれたというのは別か。
信心は阿弥陀さん側からでないと言えない話というのはわかる。認識し確かめているのはどこまでも自分であるというのはいつも思う。

「悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。」(『教行信証』化身土巻)

結局取引してしまう自分。不可思議を自分の中に閉じ込める。何やってもこうなってしまうなあ。自分は仏教をどこか納得できるかどうかで聞いている。
「すくい」といってしまったら、すくわれる対象である自分が、すくわれてない状態(A)からすくわれている状態(B)へと変化し、その変化を立証できることを想像してしまうが、なんというか、(A)も(B)も関係ないところがあったというのもすくいの有無を離れるということなのだろうと思う。でも自分=我を大事にし、常に安定したところにいたいと思う気持ちは止まない。それが止まないということを知るのも(A)も(B)も関係ないところがあることになるんだろう。でも…と思考し続ける自分はずっとその周りを永久に循環しているところもある。たまに、一瞬はっとするのだろう。

しかしながら、「宮殿」で500年金の鎖に繋がれても良いかもしれないと思ってしまう自分がいる。

 

◆過去動画

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