如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

一度あの人をしったものは… 『死海のほとり』遠藤周作

『死海のほとり』遠藤周作 新潮文庫

 信仰の揺らぎと共に書かれたという三部作のひとつ。遠藤周作が聖書学を志したかつての同級生を訪ねてエルサレムに行った話と筆者自身がイエスを他者がどう見たかということを微細に表現した短い物語が交互に紡がれる。

 イエスを「あの人」と呼び、気になるという。友人は信仰を捨てたかのような皮肉をちりばめた言葉でしかイエスのことを語らない。戦後にこんなところに来てまで学んでいるのに。現代の筆者たちが、そしてイエスの時代の人々が、イエスを見捨てていくのにイエスから目が離せなくなる、どうしても見てしまうということを描き出している。なるほどここから『沈黙』のキチジローが生まれてきたのか。

 この遠藤周作の五感に訴える筆致、すごい。そしてそれは快楽的ものではなくてわれわれの日々の生活の中にある逃れたいもの。絶対逃れられないけど忌避したいものとして伝わってくるのに、そこになんか「不快」で済まされないものがある。

 過去を振り返るエピソードとして、ハンセン病患者等と野球の交流を行ったときに、患者選手からタッチされそうになり足がすくんだというのがあった。「おいきなさい…触れませんから...」と小声で患者選手に言われた言葉が20数年ぶりに頭の奥で聞こえてくる。自分というものは長い年月で忘れることも多く、親との関わりのエピソード、友人の名前さえ忘れることもある。でも、こういう自分の奥底から鮮明に浮き上がってくるものというのは他となにが違うのだろうか。いまの自分を作り上げているなにかなのかと思う。自分の人生の中でかつて引っかかってきたなにか。ちょっとだけ傷になったものが治った痕?いや、痕なのか。それはいまも血を流しているのだ。自分が鈍くなっ ていっているだけなのだ。

 信仰ということに対する自分の疑問にも向き合う。著者は幼い頃に親の意向で洗礼を受けたため、自分が選んだ信仰としてあるのではないという思いがある。自分はたまたま両親とも真宗大谷派の家で大人になって自分の自覚として真宗大谷派だと思う。友人でも家族内に別の宗教、宗派がいるために自分はどうしたら良いのだろうという人はいる。宗教が個人のものであるなら、家の宗教、親の宗教は関係ない方がいいなと思うところである。たとえそれが結果オーライであったと本人が言ったとしても。

 大学にいた助手の「ねずみ」が収容所で亡くなっていることを聞き、その消息を尋ねる。キチジローの元になる感じの人だ。人間のいやなところを全部外に出しているような人で、学生だった時分は笑いものにしていたのにそのねずみの死が、どうやって収容所にいたのかが気になってたまらない。

 そうかと思った。自分より下だと思っている人間の悲劇的行く末を「自分は違う」と高みの見物をしているのではなくて、認めたくないけれども自分の中にある同じ汚らしいものを周囲に見せてきた人(自分は見せていないつもり)の行く末が気になるのではないか。見たいのは、自分の結末なのだ。あれよりは、ましなのではないかという気持ちもあるだろうが、まずは「見たい 知りたい」になるのかと感じた。

 過去を振り返るエピソードは、まったく同じでは亡いけれども、ああ自分もこういう風に思い出すとチクチクすることを重ねてきたなと思うのだ。そういう人生を歩んできた自分に対峙するということが宗教なのかもしれない。

 一度あの人を知ったものは、あの人を棄ててもわすれることはできぬのだ。だからこそ、自分の足はこの髑髏(ゴルゴダ)の丘に向かってしまったのだ。

 なんというかキリスト教のことのようでいて、遠藤の自分を見つめる深さに触れる内容だと思う。

 遠藤氏の描くイエスは無力で小さく汚らしく奇跡を起さない。悲しそうに側にいるだけ。自分は最近の法話(浄土真宗)で結構連続して智慧と慈悲を聞いているのだが、仏の慈悲は大きすぎて自分にはわからないのだが、このキリストの姿が小悲小慈とは思えない。愛というのだが。自分にはないものがそこにある不気味さ。うーんなんと表現したら良いだろう。異質さ。それ故に目が離せない。尊いとかありがたいとかそうじゃない。自分がそこに言葉を加えられないものを感じるのだ。

 一度知ったら忘れられない。遠藤氏は「あの人」と呼ぶイエスが頭を離れなくてエルサレムまで行った。自分は南無阿弥陀仏を忘れられない人たちを見てきた。全然違うけど、違わないのかもしれない。人間にとって。

 

 浄土真宗を聞いている自分としては真宗の見方で見てしまうところも正直否めないが、それでもそれを超えて人が信仰することと深く自分を見つめることをこの本からさせてもらった気がする。ただ物語を追うのではないのだ。自分を見つめるのだ。

 求めるこころってなんだろうね。信仰を喜ぶだけがそうではないのかもしれない。どこまでも悲しくてもいいのかもしれない。菩提心ってなんだろうね。

 

◆三部作のひとつ

luhana-enigma.hatenablog.com

◆キチジロー

luhana-enigma.hatenablog.com

◆人が宗教と向き合うこと

luhana-enigma.hatenablog.com

◆エッセイ

 

luhana-enigma.hatenablog.com

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