如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

虚仮不実というわたしも虚仮不実 親鸞和讃を読む ー浄土真宗に帰すれども(1)ー瓜生崇師

2022年8月16日(火)19:30~ 真宗大谷派大津別院
『親鸞和讃』を読む ―浄土真宗に帰すれども(1)― 瓜生崇師

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【質問コーナー】
「信心正因 称名報恩 を別々にすると、称名報恩はわたしが主体で自力の念仏になりませんか?」
親鸞聖人はこれを別々にはしていない。称名が往生の正因であるとも書いている。親鸞聖人は信心とお念仏を別にしてない。
最初に分けて書いたのは覚如上人、そのご蓮如上人。たしかに蓮如上人は書かれているが、当時の事情があった(お念仏をしたらすくわれるという時宗の下地)。あえてお念仏が浄土に往く正因だと言わない表現をしている。自力じゃないから報恩といっている。
お礼だから取引ではないといいたかったようだ。

法然上人の問答というのが面白い。疑ってはすくわれないも疑いながらもすくわれるも本当。いつも思うけど、これが完璧な答えというものを聞いているのではなくて、そのときそのとき変わっている自分がはたらきの一面を聞いていくのだなあ。

親鸞聖人は「疑いがなくなった」と結果は言われない。「疑いを持ってはいけない」と自らを戒める。そのときの親鸞聖人を見せてもらっているのだろう。人間だから。
自分が聖者になっていると思うことは魔境に入っている。

龍樹:真如のはたらき=すくいは言葉に出来ない。われわれは言葉を持ってしなければなにも認識できない。言葉を離れたものが真実である。どうしたらいいんだ。でも言葉によっていくしかない。永遠にさとりの世界を紡いでいく(終りがない)のが大乗のあゆみ。終わらない歩みだからこそすくわれていく。永遠に終わらないからすくわれていく。

【愚禿悲歎述懐】
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」
(『三帖和讃』正像末 愚禿悲歎述懐 1【真宗聖典】508ページ)

・ありがとう=あることが難しい
・虚仮不実 うそいつわり。いんちき。
・真実の心=自分から起す方のこころ 真実の信心=阿弥陀さんが起す方のこころ
・真実=如来

善友がいて自分がすくわれる。仏さまのすくいかたというのはそういうものだろう。最近遠藤周作を連続で呼んだので、イエスのことを思い出す。あれはひとつの慈悲(キリスト教だと博愛なのかな)がわれわれに見える形だなあと思うのだ。

【法藏菩薩】
あらゆるいきとしいけるものをすくうまでさとりを開かないというのは永遠に終わらないと世自在王仏はいう。
おまえを浄土に生まれさせなければわたしは仏にならない
これこそが南無阿弥陀仏

【心】
大事にしているけどわたしにできるのかが問題
 至心 信楽 欲生
善導大師は称我名字を明確にし、他をそぎ落とす。乃至十念を書き換えて唯徐もカットする。本願加減の文。法然上人も同じようにする。

自分はたまたま法話を聞いている。異国に生まれたらこうなっていないかもしれない。可能性は0ではないけど、たらればを言っても仕方がない。
三心を持つことが大事なのか、お念仏をすることが大事なのか。善導大師のいうことはどういうことなのか。原典を読んだらわからなくなる。それが大事。わからなくなってくることが大事。

三心はわたしの中にない。親鸞聖人もわたしの中にはこういうものが欠片もないという。
仏教はお念仏すればいいというところに落ち着かせてくられない。わたしの中に疑いがなくなったとおっしゃっているところがない。どういうことになるのか。自灯明法灯明。
わたしの心を疑って信じているだけということが浮き上がってくる。他力の信心をいただきましたは自分の心で信じている。
お聖教と向き合ったらぐらぐらする。すきっとしない。でもそこから自分のあゆみとなる。

 

◆瓜生師の親鸞和讃シリーズ

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