如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

長源寺 同朋学習会「無量寿経」(23)(瓜生崇師)

2022年9月15日(木)19:30~
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(23)瓜生崇師

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「一九 たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。」
(『無量寿経』上巻【真宗聖典】18ページ)

十八,十九,二十願は対象が限定されない願い。
古くからこの三願が大事ではないかと言われて続けてきた。
修諸功徳・臨終現前の願
仏がたくさん諸仏菩薩を連れてくるのは、わたしのこころがゆらぐから。

【菩提心】
十八願では誓われてない。
法然上人 余行である 往生のための行ではない

菩提心を持って自分は仏教を聞いているのか。他者をすくいたいとは思っていないと思う。
天親菩薩は一切は平等=空である。遍在はない。という
お釈迦様が見たこの世界を言っている。
そのなかで阿弥陀さまに認めてもらいたくて、功徳を積んで、死ぬときには迎えに来てくれますよね?

仏性:これはまた別途自分で調べたい。

浄土がそのままでおれない、われわれに届く形になって、真の姿を捨ててくる。

ここがいい。動いている。常に動いている。とどまらない。名前をつけさせない。

『法華経』での釈尊は、自分の覚りを完成させないと言っている。真実の自分の姿はこれであるという。
⇒双樹林下往生 方便の往生 覚りが完成する姿を見せないと、みんな求めない

いまもここに説き続けている釈尊を思うとなんともいえない気持ちになる。きっとこれがありがたいなんだろうけど、そのひとことにまとめたくない自分もいる。
どうしてもわからない真如の世界からわたしにわかるように現れるすべてのこと。
法話で方便のところで止まってしまっていいのだろうかと思うことを聞くことがある。確かにそれは阿弥陀さまのはたらきが形になったものかもしれないけれど、そこを大きく取り上げて喜ぶというのはなにか足りない。

今回の法話では、動き続ける真如、自分にはたらきかけ続けているなにがか迫ってくる感じがした。それに名前をつけられないからもやもやするんだ。浄土とかいっちゃうけど、定義が出来ないんだ。きっと。

 

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◆長源寺

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