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本光寺 歎異抄を読む(24)(瓜生崇師)

2022年9月12日(月)19:30~21:00

『歎異抄を読む』24 第三条 本光寺 

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第四条

「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々」(『歎異抄』【真宗聖典】628頁)

 

【慈悲とはなにか】

・仏教は慈悲の教え 抜苦与楽

・自分が気づかなかった自分の姿。自分が見ている自分の姿が本当の姿ではない。関わりの分だけわたしが存在する。本当のわたしというものがない。

 

他者とわたしの境界が外れるっていうこと。誰一人欠けてはいけない世界だと知ることだと思うけど、「この人はいなくていい」と思ってしまう気持ちがある限りそれはわからんだろうなあ。

あわれみ、かなしみ=共感 一緒に歩んでいこう(はぐくむ)という。=愛(煩悩)

人は思うようには菩薩の道を進んでもそれはできない。 

 

・オウムの林郁夫の話

・ジャータカの鷹と鳩の肉の話

・善鸞の話

・関東のお同行の信心

・飢饉の時の浄土三部経読誦の話

 

おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし

という深い絶望。

 

・聖道の慈悲 わたしが主体の慈悲 人をすくいきることができない

 

 自分は圧倒的に心が狭い人間なので、「わたしが人をすくいたい」と仰る方の中にむずがゆいものを感じるときがあるのだ。そう、人に依って「それ、あなたの満足のためじゃないか」「ほんとうに他人のためですか?」と自分が勝手に思っちゃうときがある。これなんでだろう。本当にそうかどうかなんてわかるはずないのになあ。

 という自分なので、自分の中にそういう気持ちが起ったときもそこに純粋な「他者のために」を見いだせない。絶対自分のためになるからやるんだと思っている。これもひねくれているのかもしれない。でも、仏法を求める自分の気持ちは本当だなんて思っていない。そう思えたらいいなと思うが全然思えない。どこかに自分のメリットがあるから聞いているのかと思うけどそれもなんか違う気がしていてすごく宙ぶらりんなのだ。これはニヒリズムに近いのかなとも思ったときがあるけどそこまででもない。自分はおかしいのかなと思っていたが、気がついたことがある。

 苦しいといって求める人は、「苦しい」と言える。自分は言えない。自分は自分の中のそれを開陳したくないのだ。それがあるとかないとかも他者に開示したくもない。だからあくまで自分で求めるしかないのだ。他の人がどうであれ、自分はそうなんだと思った。

 そんな自分は苦しむ他者の姿を通して、自分もそうである、同じであると知らされる時がある。頭じゃなくて身で知る。それがお聴聞なんじゃないかなと思っている。

 

 今回は聞いた側から自分の中のことがずるずる引き出されたのだった。

 

◆本光寺

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