如是我我聞

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長源寺 同朋学習会「無量寿経」(24)(瓜生崇師)

2022年10月13日(木)19:30~
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(24)瓜生崇師

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「二〇 たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。」(『無量寿経』上巻【真宗聖典】18ページ)

十八願 至心 信楽 欲生我国
菩提心 仏教において一番大事な心 すべての人とさとりを開きたい、すくわれたいという心
⇒われわれの菩提心は間に合わない。余行である。(by法然)
ぱっと結論だけ書いてあるが、親鸞聖人は論理的に突き詰めていく。阿弥陀さんの側のことと親鸞聖人は見る。

仏教を求める心というのは、自覚的なものなのだろうかと思うときがある。すべてが説明できない様な気がする。そう言った意味でも求める心が自分のものではないというのもあるのじゃないかと思う。これは現代的な見方かもしれないけど。
最近ハイデガーを読んで、自分という存在について考えたときに配視という関心(といってしまうとまた違って受け取られそうだけど)が自己に先立ってあるから現存在となる(微妙な表現だ)というのを知った。この配視ってのがどこから来ているのかを考え出したらどこまでいっても自分がわからないな。

なにかをしたらすくわれるのか、
お念仏をしたら、お聴聞したら、これだけ経典をみたら・・・そういうことじゃない
疑いをなくすはたらきにあった 疑いがなくなったとはおっしゃらない

すくわれたといいたいひとは、違うんじゃないですかと言われると怒る。たしかに。

頑張って仏道を求める、修行する、戒律をまもる、だから救って下さいというのは取引である。
念仏を差し出すのも取引になる。
南無阿弥陀仏ですくわれようとしているのに、念仏をする自分を頼りにしている。
親鸞聖人がいなかったら、二十願を読んだら、十八願で誓われた南無阿弥陀仏がわたしに聞こえてくる=十八願が成就した世界と読んでしまう。

「念を我が国に係けて」=わたしの念が中心
「諸々の徳本」=お念仏を徳が詰まった自分の道具のようにしている
「果遂」=人間はこれでしか南無阿弥陀仏にであえないから、これを元に果たし遂げる

法藏菩薩の願い わたしはあらゆる人々を必ずたすけたい。そのためにはいかに麗しい浄土を作っても、そこにとどまらない。自分がすくわれたことにしない。
自らのすくいをあとにする。自分が最もすくわれないものとすることがすべてのものをすくうことになる。
親鸞聖人は菩薩道からお経を見直している。

真実は、「わたしはすくわれた」と自分を主語にさせない。

「悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】356ページ)
大小聖人:大乗仏教、小乗仏教
一切善人:ここにいるひとたち。
かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに:法蔵の願いがわからないから

「…慈氏菩薩、仏に白して言さく、世尊、何の因・何の縁あってか、かの国の人民、胎生・化生なる、と。仏、慈氏に告げたまわく、もし衆生ありて、疑惑心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生まれんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて、寿五百歳、常に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず。このゆえにかの国土にはこれを胎生という。乃至 弥勒、当に知るべし。かの化生の者は智慧勝れたるがゆえに。その胎生の者は、みな智慧なきなり。乃至 仏、弥勒に告げたまわく、たとえば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あらん。種種に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなわちかの獄の中に内れて、繫ぐに金鎖をもってせん。」(ここ好き)
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】328ページ)
阿弥陀さんのすくいを罪福と捉えているからだ。本願を信じているようで居て、もっとも疑っている姿だ。

本当の真実の世界は否定でしか表現できない。これでいいというものが破られていく世界。

ああ、そうなんだよなあ。どっちでもなく確実でもなくこれでもない。でも自分の認識って、自分に都合がいいように先回りするよね。これって止められない。生きている限り止められないけど、それでも聞いて破られたときははっとするんだよ。きっと。

 

◆長源寺

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