如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

自分の聞法について考える 『仏教統一への期待』金子大榮

「すでにこの道あり」2『仏教統一への期待』金子大榮 真宗大谷派名古屋別院

購入は法藏館書店から

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 曽我師の法話とは違いすっと頭に入ってくるお話で夜に聴いたら返って頭が冴え冴えする。朝に聴く。

 金子師の本ってすごくいいなといつもおもうのだけど、お話もすっきりしていて聴きやすい。

 本の中で、お互いの意見の合わない三人が同じところでお話しして、その3つのすべてがいいとよろこんでくださることがあるから自分もたすかるというような内容のお話がある。そうだなあ。それってすごいよな。自分なんかはすぐに自分の反応が出てしまうから全然あかんのだと思う。でもそういうひとと一緒に聴くのがいいのだなと思う。自分がそうなれるとはちっとも思えないけど。

 

 ほぼ全部いいないいなと思って聴き、読み進めてきたのだけれど、どうしても考え込んでしまうところがあった。

聞く人の誠というものがある。聞く人の誠はそこに自ずから取捨があって、取るべきものは取り、捨つべきものは捨てておる。決して非難をしない。したがって聞くというものの態度の上において何よりも大事なことは、取捨を行うて批判をしないということである。取るべきよい話を聞いて、「はい、ためになる話であったなあ」ということを取って、そして自分の胸に合わない、自分の気持ちに合わないものを捨ててしまうというか。聞法者の態度は、取捨あって是非がないということでなくてはならない。これがまず第一に、聞く人に期待されることであります。

 だから、聞く人がもし取捨を行わなくなって、そうして是非をするようになれば、その人はもやは聞く立場を忘れて、説く立場になったのである。いわゆる”知識階級”になってしもうとるのであって、日常生活を離れたものと言わなきゃならない。

一部切り取りじゃなくて長く引用。ここのところが自分はそうなのだろうかと思ってします。この後、真宗の祖師方もそうしてきたと続くのだけど、なんかここだけはそうかなあと思ってしまう。

 日常と照らして違うから???ってなるのではないか。そこからどうしてなんだろうが始まるんじゃないか。自分はそう思うのだ。

 聞く人に期待されることってこういうことなのかなあ。

 

 最近あったことで自分は結構がまんが効かないポイントがあるのだなと思っている。そこを冷静に深掘りすれば自分の苦しみに関わるところなのだなというのが後でわかる。聞く人に期待されることが上記だったら自分は全然は知識階級でもないし、なんかもっと手前のところでダメな奴だなと思っている。実際聞き方に関してそういう自覚があるのである。だからといってどうしようもないのだけど。

 自分はあまりSNSとかで愚痴はいわない。言っても一時の爽快感や誰かに聞いてもらえたという安堵感(?)、慰めなどでなんともならんと思っているから。だから心許せる人に一対一で話す。そんな感じ。

 仏法に関することはまあこうやって公開できる範囲で書いているけど、本当の自分の深いところに関わることは書けないし他人には見せられない。そういう意味でもやっぱりひとりで聞いているんだなと思う。となりで全然知らない人も同じような孤独な中で聞いていて、それはある意味孤独ではなくなる。ということを最近はお聴聞で感じる。 

 

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