如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

独りで歩む 『唯信鈔文意』3 瓜生崇師

2022年9月13日(火)20:00~
シリーズ 晩年の親鸞聖人に出遇う 『唯信鈔文意』3 
真宗大谷派玄照寺 瓜生崇師

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「また「唯」は、ひとりというこころなり。「信」は、うたがいなきこころなり。すなわちこれ真実の信心なり。虚仮はなれたるこころなり。「虚」は、むなしという。「仮」は、かりなるということなり。「虚」は、実ならぬをいう。「仮」は、真ならぬをいうなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」という。「鈔」は、すぐれたることをぬきいだし、あつむることばなり。このゆえに「唯信鈔」というなり。また「唯信」はこれ、この他力の信心のほかに余のことならわずとなり。すなわち本弘誓願なるがゆえなればなり。」(『唯信鈔文意』【真宗聖典】547ページ)

なぜ「唯」をひとりとされたかをたずねる。

「専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。」
(『歎異抄』第六条【真宗聖典】628、629ページ)

たくさんの人がお話を聴きに来て、去って行く。仏教はその人個人にとって一生聴かなければならないものではないかもしれない。

「説道も涯分いにしえにはずべからずといえども、人師・戒師停止すべきよし、聖人の御前にして誓言発願おわりき。」(『口伝鈔』【真宗聖典】

「是非しらず 邪正もわかぬこのみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」
(【真宗聖典】511ページ)
「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」(『教行信証』信巻【真宗聖典】251ページ)

・人師 先生として慕われる 名利
親鸞聖人はこういうところで苦しまれたのではないか。

「38 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」
 40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
 54 集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。」
(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 岩波文庫 第一蛇の章 三、犀の角 18,20ページ)

仏教は自分と阿弥陀仏のことなんだよな。そう。そう思うと自分はサンガへの帰属意識ということが希薄かもしれない。

・自灯明 法灯明 自分(教えによって貫かれたわたしの姿と真理を拠り所とする
・言葉でいっぱいのわたし 真実そのものを見ることが出来ないけど言葉がなければ近づくことも出来ない
・親鸞聖人のお念仏の教えを学ぶこととわたしの身の上に南無阿弥陀仏が証されるのはまた違うこと→知識とは違う

「「信」は、うたがいなきこころなり。すなわちこれ真実の信心なり。虚仮はなれたるこころなり。「虚」は、むなしという。「仮」は、かりなるということなり。「虚」は、実ならぬをいう。「仮」は、真ならぬをいうなり。」(再引用)
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(正像末和讃 愚禿悲歎述懐1【真宗聖典】508ページ)

・真実の信心=南無阿弥陀仏 疑いないもの。自分の心ではない。
・真実の心=わたしの心

疑いがあってもいいといってはいけないし、疑いがなくなったというのもちがう。自分の心の有様を中心にしてしまう

この回、すごくいい。瓜生師の「伝えたい」というのが響いてくる。
いろんなお聴聞の場を共にする人がいるけど、自分は特定の人とつながったりすることが得意ではない。なぜかというと、「変わる」からだ。自分が変わることもあれば相手が変わることもある。だからその場で一緒にいることでいいかなと思っている。いま通っている場にも複数被ってる人がいるけど、会釈ぐらいで言葉を交わさない人も多い。お聴聞ってそういうものかなと思うと、仏道は独りで歩むというのもしっくりくる。
自分は法話を聞きたいのであって、仲間を作りたいのではまったくないというのもある。すべての衆生と共にすくわれていくことをいう大乗仏教としてはあかんのかもしれんが、それこそ仲間は差別だしな。
それなりに時間が経過してくると、真宗の中でも派だけじゃなくてその中にもグループ的なものがあるのもわかってくる。
まあ浄土真宗って、仏教の中のひとつの宗なんだよね。真宗十派もあるしな。
最近他宗の人と交流をすることがあった。すごく楽しく仏教の話をすることが出来た。浄土教ってやっぱり真言宗や曹洞宗のひとからしたら全然違うものに見えるのだと思うけど、同じ経典を読んだ話なんかしたらそれはそれでああ、似ているのだなと思って楽しいのだ。宗も派も違ってもひとりひとり歩むものとして対したときは人間同士なんだよなあ。自分はそういうのがいいなと思う。みんな宗も派も代表してない。自分代表でしかない。

どうやっても言葉にならないことをお聴聞しに行って、さらにわからないままにこうやってぼつぼつメモを書いている。すべて自分のためのことでしかないのだけど、仏法聞いてうれしいことを誰かに見せたいという自分の名利がはたらいているなと思う。と、つれづれにいろいろなことが湧き上がってくる回なのだ。

 

◆過去分

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