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菩提心…「親鸞和讃」を読む 「浄土真宗に帰すれども」(2)瓜生崇師

2022年9月16日(金)19:30~ 真宗大谷派大津別院
『親鸞和讃』を読む ―浄土真宗に帰すれども(2)― 瓜生崇師

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【愚禿悲歎述懐】
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」
(『三帖和讃』正像末 愚禿悲歎述懐 1【真宗聖典】508ページ)

いろいろなことを考え、悩み苦しむのだから、心をからっぽにするということはわたしが消滅するということ。
通じ合えると思うから辛い。苦しい。

お釈迦様はよくぞ教えを説いてくれたなと思う。この話は当たり前に聴いているけど全然そうじゃないよなあと今日は思う。還相回向ってすごいな。ここを聞くと自分の周りが違って感じる。
自分の中の心の悪魔。それすらも還相のはたらきなのかなあ。

【菩提心】
仏さまのさとりをもとめるこころ
上求菩提下化衆生
菩提心を積み重ねても自分のすくいには間に合わない=余行(法然聖人)

自分も自分の生活の範囲の中でお聴聞をしているわけである。仏法を求めるために生活基盤を捨てる気はさらさらないのである。明日死ぬかもしれないというのにやはりいつともしれぬ明日ではないという死を聞いている「つもり」なのだ。
最近読んだハイデガーの『存在と時間』の自己の死の認識について。自分は現存在の配慮的気遣いによって認識しているのだけど、その認識は対象となる世界(こういうものという常識といえばいいか)に対することを元としているけど、ときたま現存在を貫くものに知らされることがある。自己の死がそのひとつ(すみません。だいたいです)。でも認識は常に明日もあるこの先もある世界を対象とするから、知らされた自己の死は概念として認識しながらも、自分のものとして常に配慮されることが薄まるというような感じ。これが病で苦しんでいる方なら、それこそが現実の認識になるから別なのだけど。

自分というものもわからないし、本当にもとめてることもできない。これって仏法を聴くほどそうだなと思うのだ。

大乗の教えを聞いても声聞になってしまう自分。そうなんだ。ここで『阿弥陀経』だよな。声聞を批判していたら、「いや?これ結局差別してるんじゃない?」と気がついて菩薩道が広がっていく。いい。これ聴いて久々に『阿弥陀経』のお話が聞きたくなったんだよな。

今日は感想めもになったな。

 

◆親鸞和讃を読む

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