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浄土に生まれたいか、自分 「親鸞和讃」を読む 「浄土の大菩提心は」(1)瓜生崇師

2022年10月31日(月)19:30~ 真宗大谷派大津別院

『親鸞和讃』を読む ―浄土の大菩提心は(1)― 瓜生崇師

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「浄土の大菩提心は 願作仏心をすすめしむ すなわち願作仏心を 度衆生心となづけたり」(正像末和讃19【真宗聖典】502ページ)

【菩提心】

前回に引き続いて菩提心についてみていく。

上求菩提 下化衆生 自分がもとめていくだけでは本当のすくいではない

 

お釈迦様はそれぞれの言葉で教えを伝えて欲しいといい、聖典を持たなかった。

・口伝

・キリスト教の場合 マルティン・ルターの宗教革命。聖書のドイツ語翻訳と印刷発明。

たまたま復習で自灯明法灯明のところを連発で聞いていていまの自分が聞かないと行けないところなんだなと思っている。

教えは対抗するものが生まれたときに深まる。一番勉強するときは反論があったとき。

わかる。とてもわかる。でも教学だけに偏るのはあまり好きではないのだ。

・文字化することで対話できる その前は問答で深めていた

 →ギリシャ哲学、仏典(釈迦と阿難、弥勒、韋提希、舎利弗)

・大乗仏教はタコ壺化した仏教に対するアンチテーゼ

 

【三乗】

・菩薩 ○ ・声聞 × ・縁覚 ×

これ自体が大乗の教えに反しているのではないかと気づかれる。

実体のない功徳をあらゆる人に回向することが菩薩道であり、それをもとめる心が菩提心である。

宗教のはたらき わたしが正しいと思ったものが崩されていく。こうでもないこうでもないとしか表現できない。

化身土巻よむべしだな。

 

・大菩提心 主語は阿弥陀さん

・願作仏心=度衆生心 他力の菩提心 主語は阿弥陀さん わたしをして極楽に生まれて仏になって欲しいと阿弥陀さんが願っている心

 

「三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり」(正像末和讃16【真宗聖典】502ページ)

 

流転をしてきた自分、いまの自分だけでは語り尽くせないものが自分の中にある。

これはなんかわかる。

仏になりたいという心 浄土に生まれたいと思う心 楽ちんが出来る世界だと思う。それは浄土に生まれたいということではない。かならずみんなを助けたいというこころ。

 

「三輩生の中に行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、要ず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽間なきを聞きて、楽のためのゆえに生まれんと願ぜん、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに言うこころは、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うがゆえに」と。「住持の楽」とは、いわくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、受楽間なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、いわく己が所集の一切の功徳をもって、一切衆生に施与したまいて、共に仏道に向かえしめたまうなり、と。」

(『教行信証』信巻【真宗聖典】237ページ)

 

曇鸞さん、厳しいね。親鸞聖人はそういう心があるだろうかと立ち止まる。菩薩道、歩めんなあ。全然だわ。その瞬間これだと思ったことだって直ぐ変わる。本当に変わり通し過ぎて不安になるわ。

 

欲生はわたしを浄土に生まれさせたいと思うこころ。阿弥陀さんがわたしを呼び続けている。

 

「次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。」(『教行信証』信巻【真宗聖典】232ページ)

 

最近、起きている時間の仕事の比重が高くなっていて、しかも自分の判断や努力でなんとかなる仕事ではないものが増え、自分はこうしたいと思うことがまったく通らないことが多くなった。

楽になりたい。

正直思うのだけど、仏法を聞いていたらまあそういうこっちゃないなと思ってまた仕事にと向かう。自分がすくわれたい気持ちMAXだな。

たまに思うのだけど、阿弥陀さんはわたしのどんな細かい「苦」の中身も知っているという法話を聞いて、そうかあ?と。どっちかというとわたしという存在自体は「苦」しかないということなんじゃないかと思っている。だからいまわたしが感じるこの辛さをわたしと同等に阿弥陀さんがわかっているということじゃなくて、この苦しみを自分という存在がどのように(HOW)苦しんでいようとも、苦しみの存在であるからすくってくれるのだろうかと。これは今回の話とは別の事だけれど。もやもやするのだ。

 

◆親鸞和讃

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