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本光寺 歎異抄を読む(26)(瓜生崇師)

2022年11月14日(月)19:30~21:00
『歎異抄を読む』26 第五条 本光寺

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ちょっと第四条の復習。これもよかったので後で振り返って聞く(自分メモ)。
第五条
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々」(『歎異抄』【真宗聖典】628ページ)

それに対して「だったら念仏することで死んだ親もすくえるんですね」という思いで質問した人たちがいるのであろう。

わたしはお父さんお母さんの供養のためにお念仏をしたことはただの一遍もございません。
・孝養=追善供養(普通の供養じゃないと言っている)
・供養:亡くなった方になんかすると思われている 本当は在家→出家者
・追善:生きている間に出来なかったから後からやること
・格義仏教:インドの思想を中国の元々の思想にあてはめている。

・回向:自分の行った善行を差し向ける。 出家→在家始めみんなに
 回向文:経典の読誦が功徳。自分の功徳。最後に回向文で自分の功徳をみなさんに差し向けます。


 経典は元々僧侶しか読まないというのは他宗派のところにあるルールで感じた。在家は読んではいけないところがあるというのをきいてびっくりした。
 追善供養については定着が根強いよなあ。親に話しても全然わかってくれないところである。そしてそれを正しいとして真宗に興味のない人に押しつけるのもどうかなと思って非常にもどかしい。もどかしすぎていやになる。

・有情:生きとし生けるもの 
・世々生々:うまれかわりしにかわりしていくなかの
お父さんが大事お母さんが大事というのは仏教で言えば捨てられない差別。
お釈迦様はあらゆる生きとし生けるものは一子地であるといった。

「この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。」までかな。
真宗の本当のところをズバッと言う親鸞聖人のお言葉だなあ。
追善供養のことを供養という単語で語る人もいるし、回向も真宗とそうでない宗派で意味合いが違ってくる。こういうところは丁寧に自分で確認しないといけないな。あ、確か俗諦もそうだ。
自分自身は法要に対して親戚が集って同じ時代を生きている縁者として生きている今を確かめ合うというところがあるかなと思う。自分の父は戦中生まれの五人兄弟の最も年の離れた一番下。上から三番目の姉が認知症で誰彼わからない状態でいるだけでみな亡くなっている。父も大分な年齢になった。篤信の真宗門徒であった祖父母のいた本家は自分の従兄弟に代替わりし自分が法要に呼ばれることもなくなった。従兄弟だけがお寺さんを呼んでやってもらっているという話である。従兄弟も還暦過ぎている。そういう風になってしまうものかなと思う。なんだか急に思い出した。集まれるってすごいね。そこで南無阿弥陀仏の話がされるってすごいな。
回向については、どこまでも「自分が」というのが抜けきれないなと思う。言葉の概念として理解していても本当の腹の底でそう思っていない。これが功徳を積んだということだ徒勝手に思う自分と、回向により他力のはたらきをふりむけられているといわれてもまったくなにも動じない自分。自分が動くことでしか確かさを感じられないのだなあ。

 

◆本光寺

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