如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

宗教の独善性 『雨』サマセット・モーム

『雨』サマセット・モーム グーテンベルク21

 

雨

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 いろいろな哲学・宗教関係の著者の方が『雨』をすすめていたのでずっとリストに入っていた。

 これは小説なのでネタバレにならないように書かなければいけないのでストーリーより自分の感じたことを書いてみる。

 いわゆる未開地でのキリスト教の布教を行う夫婦が出てくる。彼らの言動をたまたま船で一緒になった医師の眼を通して感じるのが彼らの「正しさ」。驚くのが自分の中にある「こうあるべき」視点で読むのと宗教の中にいる自分の視点で読むのと交錯するとそれがそうだろうなという気持ちとあまりに高みに立ったものいいに差別的な気持ち悪さあふれるのとが同時に起こる。これが社会にいる自分の今の心の中を凝縮しているような感覚だった。どっちの見方も知っている自分。

 宣教師に迷いはない。とあるキーとなる女性登場人物に対する態度には戦慄を覚えざるを得ない。自分が正しいとなった人の盲目的偽善。それを客観的に見ている医師はどんどん反感を覚えていく。が、最後はなんとなく他人ごとになった気がする。宣教師も「所詮、人間だったか」というのが「わかった」という最後の言葉に込められていると思う。

 自分も宗教の中にいる。こうなっていないだろうか。振り返ってしまった。誰かを見下していないだろうか。完全にそれをなくすことはできない。気に入った人、気に入らない人はいる。阿弥陀様を後ろ盾に何か自分が高みに立ったことを言っていないだろうか。いうだけでなくて思っていないだろうか。考える。

 自分は嫌いなものに近寄らない。登場人物の宣教師のように自らと異なるものを自分の意に沿うようにしたいという衝動が怒りという形でもって出てくることもあるが、それを知っているから近寄らないというのが本当のところかもしれない。でも近寄らないということはそれを意識して分別しているということだ。なにも気にしないで目の前に現れたことに淡々としていたいと思うのだけれどなかなかできない。仕事もそうだけど。だからSNSを辞めて現実に目の前にいる人に向き合おうと思うのだけど、最近は現実に目の前にする人とも分かり合える気がしない(至極当然)、逃げ出したい気分になることもあり、結局他者がいて自分という存在ができていると思うもののその事実すら自分の世界でも辛いというなんともいえない自分の厄介さに行きつくという堂々巡りをするのであった。

この本にはほかの短編もあり、『東洋航路』は主人公のハムリン夫人の心の動きがまるで回心のようだった。

 

いずれの短編も『宗教』『信仰』『死』のにおいのする話である。Kindleですごく安いのでぜひご一読を。