如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

新領解文のことについて思う

 最近、浄土真宗本願寺派のいわゆる「新領解文」の話題をよく目にする。自分自身はその成り行きを見ているのがすごくしんどい。宗派違うと第三者的に思ってみていられない。SNSで声を上げる人はそれが出来る人なんだと思うけど、そうじゃない人もたくさんいる気がする。
 自分は「新領解文」を読んだ時に自分の中に湧き上がる「聴いてきたことと違う」「そんなことはいえないだろう」という思いが止められない。そしてなによりこれが宗派全体としてトップダウンとしてあらゆる場面で唱和しなければならないということへの驚き。その場を壊したいわけじゃないけど、仏教がわかっているなんていうおこがましいことをいうつもりはなりけれど、全然思ってもみないことを口にしなければならないのは宗教としてどうなのだろう。
 もう一方で他派の人間が「本願寺派のことだから」「自分の宗派でも“勉強になる”」「関係ないけど成り行き見てます」とおっしゃるのを耳にするとまたさらにしんどい。なんでかと考えてみたら、そのことばにこれを読んで違和感を持っていて唱和させられる人の宗教的な苦しみを無視しているように感じるからだ。全体としては制度の問題かも知れない。ほとんどの僧侶の方は、家ことに関わるか関わらないかが最重要かも知れない。強権的に唱和に至った制度に対する不満かも知れない。みなさんの生活と直結しているのは理解している。
 自分はそこが関係ないからだと思うのだけど、シンプルにこれをいいたくないという気持ちを大事にしてほしいと思う。宗教による苦しみだと思うから。
 自分は過去最高にお聴聞が苦しくなった。この騒動で発せられる言葉の非道さ、鋭さにかつてない痛みがある。いたい。
 自分のこの辛さは誰かが学んだり、他宗派が勉強したり、こうする方がいいといったことのために存在しているのだろうか。問題広げてくれても全然いいけど、声を上げていない辛い思いをしている人がいることを忘れないで欲しいと思う。

 宗教って、デリケートなんだよ。