如是我我聞

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長源寺 同朋学習会「無量寿経」(28)(瓜生崇師)

2023年4月13日(木)19:30~
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(28)瓜生崇師

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「二二 たとい我、仏を得んに、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立てしめんをば除かん。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。」(『無量寿経』上巻【真宗聖典】18~19ページ)

除くということがいわれているのは
 第十五願:浄土に生まれた者は無限の命があるが、それを望まない者は除く
 第十八願:五逆謗法を本願から除く→あらゆる人のすくいの道が拓ける『尊号真像銘文』を後でチェック
 そして第二十二願

・総代さんにする法話。親鸞会で仙台で布教した時の話。
・阿弥陀さんはいちばんしたからわたしを救う
・仏になってあらゆる衆生をすくってほしいという願いをわたしにかけている
・大乗仏教の始まり 閉じられた世界ではないはずという人々の想い。

 菩薩道について、最近よく考える。「わたしたちこそが声聞だったのではないか」という気づき。これは自分の中にいつも起ってくる。いくら真宗のお話を聴いていてそれを求めていっても言葉でそれについて誰かと語っているとなにかしら自分がいま口にしている方が正しいというようになってしまう。それをずっと考えている。でも口にせずにはいられないときもある。

・最澄と徳一の論争 ああ、どうしよう。岩波新書にある。買うべきか。

・双樹林下往生の話

 除かれることがすくいとなる。これは除かれるという存在として「ある」ということが自分の存在根拠として立ち上がれるのかもしれない。それは自分が思い込むというのではなくて、うーん。上手くいえない。除かれるというのは、除かれるものだということなのだ。「除かれるもの」であるといえるのだ。

 

◆長源寺のお話

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