如是我我聞

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『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第九回(瓜生崇師)

2021年9月4日(土)

『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第八回(瓜生崇師)

教行信証教巻、真実教の根拠

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【質問コーナー】
・質問1
 「阿弥陀仏というはたらきは真如、空、そのものである」というような事を聞いた記憶があります。縁起、空、無自性などがこの世界の真理であり、それを悟ることが仏の悟りであり、阿弥陀仏(=念仏)とはわたしたちをその心理へと導くはたらきであると理解していました。そうではなくて、これらの心理と阿弥陀仏のはたらきは同じものなのでしょうか。

わたしたちは主体と客体で認識する。能所。
本当はそんなものはないのだというのが空。実体がない、無自性。縁起、空、無自性をさすはたらきとして阿弥陀仏や念仏があるというのではない。その時点で空が実体化されてしまう。能所が転換するというのだけど、

広略相入
「なんがゆゑぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏・菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二に方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分かつべからず。一にして同すべからず。このゆゑに広略相入して、統ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他することあたはざればなり。」
(『浄土論註』巻下 解義分 広略相入 二種法身【註釈版七祖篇】139頁)

法性法身、方便法身はどっちが先というものではない。本当は空という名前すらない。本当のことに名前をつけているけど、空はわたしたちのいう空でもない。空もまた空なり。名づけに実体がない。迷いがなければ悟りはない。輪廻がなければ涅槃はない。涅槃と輪廻を分け隔て居るのはわたし。空を悟ることが出来ないわたしたちのために、この表現で現われた。
お互いがお互いを成り立たせている。

・覚り:智慧を得る(如去)。そして慈悲の姿として迷いの世界にくる(如来)
※往相還相も含め再度確認。

真如のはたらきは、それを拒否するわたしに必ずはたらきかけてくる。迷って輪廻するわたしがいる。わたしが真如にはたらいているし、真如もわたしに言葉として南無阿弥陀仏としてわたしにはたらいている。これを親鸞聖人はすくいの証にしていかれる。
ほんとうはこういうことをこねくり回さずに南無阿弥陀仏でいいのに自分はこういうことをごちゃごちゃ考えてきている。いろんなひともごちゃごちゃ考えてきた。

空の話は何回も聞いていいと思う。毎回自分は深まる。これは言葉で説明するギリギリのところだから、何回聞いてもいいのだ。

・質問2 
本願への理解、どうしたら信心を賜ることができるのかという話しかしてこなかった。自分が積み上げてきたものが一瞬で霧散してしまったような心境です。

法話というのはやめちゃうわけにいかないんですよね。そして話すと自己嫌悪に陥るという人が多いのではないか。

三河のおそのさんのはなし(詳細略)
自分が助かりたいというのが求道の原動力だった。親鸞聖人の教えは、信心が問題にならなくなっていく。信心の主体は阿弥陀さんの側になっている。自分の側から語るときは、無信。自分の側にはなにもない。

暁:夜が明ける前。空が白み始める。
信は、暗いのが明るくなったのではない。必ず照らすという灯りが届いているという状態。
絶対すくわれないところに絶対のすくいが現われた。
わたしが智慧に目覚めるものになってすくわれていくのではない。暗闇のわたしにあって初めて照らす光に気がつく。からっぽはからっぽのまま。親鸞聖人は、わたしの無明が本願を証している。わたしが信じることが問題にならない。阿弥陀さんにその問題が奪い取られてしまう。ややこしいことをいわなくていいのじゃないかなといつも思うんだけど。信心を獲たとか獲ないは関係ないと思う。

香月院深励の話 安心小話(詳細略)

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・信心が違うと言われたお同行。→本願が違うたというのであるまい。
・お助けに間違いないと思うがありがたいと思えない→ありがたい、安心したいという気持ちをもらってどうする気だ?(欲しいのは自分の満足。どうにも答えられない)
・本当に理解しているか心配する。→そのこころがあればこそ一生相続できるのじゃ。

親鸞聖人は、瑞々しい悦びの言葉も残しながら、すくわれない身であると叫んでいる。現在進行形。あるお同行さんがこういわれた。すくわれている、すくわれていないのどっちかに座ってしまうのは違う。常に破られ続けていくという事実がわたしのすくいの証であるといえるのではないかな。わかったことがちがうというのおかしいし、わからんことが正しいのもおかしい。迷い続けていくのが正解というのも変。あまりに深すぎてどこにも身の置き場がないですわ。

すくわれないわたしがいるから本願がある。これずっと聞いてきているのだけど、この回答を改めて聞いたら、そこがぐっとフォーカスされた。相依性。

【座っていた阿難】
・座より立ち=それまで座っていた
・阿難:35年間お釈迦様の付き人をしていた。多聞第一。仏典結集で「如是我聞」は阿難。
   お釈迦様が亡くなるまで阿羅漢の悟りを開けなかったのは弟子で阿難だけ(梵語版)
   自分は聞いて分かっているところに座っていた(慢心)。仏道を妨げる魔。

おお、ここで『阿弥陀経』のお話をされている。これは先日の法話のご準備の前だな。

・仏仏相念:仏さまの世界を阿難が垣間見た
・お釈迦様はいつもと同じだったのだが(梵語版)、阿難か変わった。違って見えた。
・阿難としては、どうしてこんなにお釈迦様が輝いているのかを聞きたかっただけだが、お釈迦様は、阿難が気がつけるはずがないのになぜそういう質問をしたのかというと、人々を哀れむ心から、阿難の意思ではない。阿難を動かした大きな願い。無仏の時代にどうしても覚りをひらけなかった人の願いが阿難にその質問をさせた。(梵語和訳・中村元)
如来の威力=真宗では他力

わたしたちの本当のものがしりたいという気持ちが起こるのは、如来の威力による。凡夫のままでさとりの世界を見る。親鸞聖人は阿難と自分を重ねていたと思う。当時比叡山では真面目に覚ろうとしていた人がいなかったかもしれない。親鸞聖人は真面目に求めても開けない。阿難も同じだ。この質問をしているということは、阿難が大きな願いに包まれているということ。親鸞聖人はこの『無量寿経』で阿難が真如のはたらきで質問をしているということが、自分が大きな願いに包まれているということと見られている。この質問をしているということが、真実のお経だという証。

阿難が座より立つということがどんなに重要なことかということをここ一年、ずっと聞いてきた。ここは何回聞いてもいいなあ。お話を聞いているときに、自分のことしか考えてないはずの自分に、求めてきた先人や一緒に聞いている人がいるということを強く感じる。こういうのはいつもないんだよな。法話ってすごいよな。

【真実の教】
「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」
(『教行信証』教巻【真宗聖典】152頁)

ここは「わたしにとって」真実の教だといっている。天台宗だと、経典の内容、構造を根拠にしている。親鸞聖人は、その本質は南無阿弥陀仏であるという。根拠は全部阿難がたってお釈迦様に質問したところをずっと挙げている。同じところを重ねて引用していく。親鸞一人がためなりはここ。こんなお経の解釈をした人はいないと思いますよ。法然上人より鮮明。

自分の聞くところ。「親鸞一人がため」。ここが自分はずっとひっかかってきた。その引っかかっているのが変わってきた。また元に戻るかもしれないけれど、「親鸞」じゃなくなってきたから「親鸞一人がため」が入ってくる。「わたし一人がため」。なんだかわからないけど。そんな感じ。わたしがあって初めてああ、親鸞聖人もか!となるのが今の自分。