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なぜ「名」がすくいなのか(3)浄土真宗Live! 瓜生崇師

2022年3月10日(木)
なぜ「名」がすくいなのか(3)浄土真宗Live! 瓜生崇師

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サムネがかっこよすぎる!!!!

 

【前回の復習】
・作心
「「未証浄心の菩薩」とは、初地以上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩またよく身を現じて、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億の無仏の国土に仏事を施作すれども、かならず作心を須ゐて三昧にはいる。すなわちよく作心せざるにはあらず。作心をもつてのゆゑに名づけて未得浄心となす。この菩薩、願じて安楽浄土に生ずれば、すなはち阿弥陀仏を見たてまつる。阿弥陀仏を見たてまつる時、上地のもろもろの菩薩と畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩、婆藪槃頭菩薩(天親)の輩、かしこに生ぜんと願ずるは、まさにこれがためなるべきのみ。」
(『浄土論註』巻下・解義分 観察体相章 衆生世間 仏【註釈版七祖篇】132頁)

人間のすくわれたいという思い。ずっと修行してもとめる気持ち。聞法心、求道心があってきている。わたし自身がすくわれたいという気持ちがないとできない。すくわれたいという質問は多い。自分もそう思って聞いてきた。「なぜ「名」がすくいなのか」というのを自分が話そうと思ったのも、みなさんが聞こうと思われたのも、それを知りたいからだ。
わたしがすくわれたいという思いが最後に残って進めなくなるという(龍樹、曇鸞)。
最後に残る煩悩。
わたしの苦しみの一番底にある「おれの おれの」というこころ。本当は一切平等なのに。仏智を撥ね付けている。「おれがすくわれたいきたい」というところに陥ってしまう。
仏教のすくいは「わたしのすくい」ではない。一番虚しいのは「わたしひとりがすくわれていく」こと(声聞、縁覚)。ひとりですくわれて迷っていく。
『阿弥陀経』 舎利弗=声聞の代表(お釈迦様の噂を聞いて悟ってしまった)自身も気に病む。舎利弗よ、宇宙の仏方があなたの歩みを護ってくれるんだ、浄土に行ったらそういうものたちに囲まれるのだ。(菩薩の世界へ)

・七地沈空
「菩薩、七地のうちにおいて大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時に、もし十方諸仏の神力の加勧を得ずは、すなはち滅度して二乗と異なることなからん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつれば、すなはちこの難なし。このゆゑにすべからく「畢竟じて平等なり」といふべし。また次に『無量寿経』(上)のなかに、阿弥陀如来の本願(第二十二願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国を遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無常正真の道を立せしめんをば除く。常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」と。」
(『浄土論註』巻下・解義分 観察体相章 衆生世間 仏【註釈版七祖篇】133・134頁)

みんな助かるんですって聞いたら、そんなもんに目覚めたら、仏法を聞く気も伝える気も消滅するんじゃないんですか?あなたは大丈夫、本願は成就しているんですという話しか聞きたくなくなる。それが一番深い迷いの姿。もし宇宙の仏方のすすめをきいて往生したならば、そうなることはないという(曇鸞)。
第二十二願 一生補処(悟りの一歩手前。悟ったんじゃないけど、悟ったと言っていい)。この迷いの生が終わったら、悟りの世界に入る。もしみんなをすくっていきたいというのであれば、浄土に生まれて悟りを開く者から「除く」、すくわれるのから保留する、一歩前に留めるという。いろんなところに行ってあらゆる人のすくいは自分のすくいという生き方をしなさい。いろんな仏さまからお聴聞して(普賢の行)、あらゆる人をすくって生きなさい。あらゆるところに悟りの教えを満ちあふれさせる。

『浄土論註』では、阿弥陀さんの力によってすくわれていくというのと、阿弥陀さんのはたらきによって迷いの世界に留めるという(還相回向)。両方ないと虚しく終わってしまう。
弘誓の鎧は、本願の鎧。自分を守ってくれる。そして迷いの世界に戻される。

最近改めて二十二願の深さを感じる。阿闍世はこの願いをもったから留められたんだよきっと。そして今もわれわれに経典からその姿を見せてくれているのだ。
弘誓の鎧。頼りない自分にはなんとすごい装備なのだろう。これも自分で用意したものじゃないのだ。用意されているのだ。

【法然上人】
・1133年、岡山県に漆間時国の子。父は明石定明に殺される。
・9~12歳 菩提寺 勧学得業に師事
・比叡山にて 13歳 源光、15歳 皇円 に師事 その後出世を放棄。18歳で黒谷へ、叡空に師事。念仏と観仏で喧嘩したことも。念仏だとお聖教に書いてある!本願の行だ。良忍上人だって前に生まれただけじゃないか!
・観仏:自分の心を整えて見るのは難しい
慈悲と親子の愛をつなげる話があるが、人間のは我執、愛欲。わたしたちは、自分達のわかるところにああ、こういうことかというものを作り上げてほんわかしてあったかいといっていく。
・法然上人は早くから念仏がすくいであると気がついていたが、確信を持てなかった。
・43歳 報恩藏で一切経を読む。
・三学不器:仏教は突き詰めれば戒定恵である。如何しても出来ない。心がどうにもならない。いかがせんいかがせん。仏教じゃない仏教をもとめているようなもの。
・お念仏 こころが軽くなるとかそういうのがすくじゃなかろう。自分のすくいの証となるものを探す法然上人。

【順彼仏願故】
仏教の大転換。お念仏をする人に気がついた人が法然上人というのは間違いではないが、そうではない。『選択本願念仏集』
わたしが念仏しかできないから念仏することを選んだというのではない。阿弥陀仏がわたしのために念仏を選んで下さったんだ。念仏を本願の行に選び取って下さった。これが法然上人の選んだすくいの姿。阿弥陀の誓いの中にはわたしがいる。わたしは見捨てられない身なんだ。

世親 迷っているわたしがいるからさとりの世界がある。真如の世界は迷いの世界に分かる形ではたらきして行く。
曇鸞 ふたつであってひとつでなく、ひとつであってふたつではない。
さとりのはたらきはかならずわたしを目覚ましにかかる。
・道正(?-434 東晋から劉宋にかけて活躍した僧。
 半分しかなかった『涅槃経』を読んで、声聞もすくわれると言った。「闡提成仏説」(善根を断った人ですら成仏できるとする説)を主張。みんなにそっぽを向かれ、石に向かって説教したといわれる。残りの半分がのち半目魅し、山川草木悉有仏性とそのことが書かれていることが分かった。

どうやってわたしがすくわれていくのではなかに、名にわたしがこもっていた。阿弥陀さんがわたしをどうすくっていくかだった。

この視点の転換のお話は何度聞いてもすごいと思う。結果を聞いて、ああ、そうなんだで理解するようなことではない。苦しみ悩み考え続けた人の行き着いた先を見せてもらっている。
今年は黒谷に行きたい。

【親鸞上人】
「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
 それ仏、難治の機を説きて、
 『涅槃経』(現病品)に言わく、迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪。三つには一闡提なり。かくのごときの三病、世の中に極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】251頁)
五逆謗法の方がまだましだといわれる。

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法」(『無量寿経』【真宗聖典】18頁)
唯除五逆誹謗正法を親鸞上人は問題にした。わたしが疑いなく信じるというのはどういうことか。親鸞聖人は本願を信じられなければすくわれないという。親鸞聖人の書かれたところには、わたしは信じているように見えるが内は疑いで一杯だというものもある。真解脱できるものはわたしの中にはない。わからなくなる。

・聞其名号 名が聞えたことが信心である。

とはいうものの、わたしの中にない喜び。疑いは消えない。

「たといただかの安楽に生まるることを貪して生を願ぜんは、またみずにあらざるの氷、煙なきの火を求めんがもとし、あに得る理あらんや。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】273頁)
「おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。」
(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】357頁)
南無阿弥陀仏を幸せの交換条件にしているだけだ。本願に応えている姿ではない。
すべてのいきとしいけるものを必ずすくうという本願をみていくと、如何してもすくわれない、除かれるもの=自分が見えてくる。
すくわれるんだろとおもっている自分がいる。
・耆婆は阿闍世に対して、「慚愧しているのはいいことだ。お釈迦様のお話を聞きませんか」とすすめる。地獄に落ちたくない阿闍世が、慚愧の心により、すくいのとらわれから解放されていった。

・悉知義 「お前は悪くない」という慰め。
『教行信証』信巻の冒頭【真宗聖典】209頁 メモ書。
そんなこと気にするなよという大臣の言葉。
仏法に関心もなく背を向けた者でも心を翻してすくわれていくという物語について記したあとに、「わたしには慚愧の心もなく、どうでもいいとおもっている自分」の告白ではないか。
気持ちのいい話ばかり聞きたくって、恥ずかしい自分を本当に恥ずかしいと思っていない。
どっからみてもすくわれる手がかりがない。
善導 深信 本願が届いた姿を二つ書く。
 法の深信 浄土に往生してすくわれるのは間違いない。
 機の深信 わたしはずっと迷い続け、ずっと苦しみ続け生きてきて、すくわれる縁手がかりがまったくない。
 別々の方向からみている。

絶対すくうという本願があっても自分はすくわれない。すくわれないわたしがすくわれたら本願は消滅する。この二つはわたしが生きている限りずっとそのまま。
宙ぶらりんになった感じがしませんか?

四十八の願いですくいから「除く」ということをかいているのは二十二願と十八願。
・十八願 五逆誹謗正法
・二十二願 衆生のために菩薩の道を歩む者
わたしをすくいから解放してくれる「除く」。すくわれるんでもなくてすくわれないというのでもない(二種深信)
菩薩の道はしんどいが、わたしたちは弘誓の鎧、十方の諸仏に護られて生きていくまま。すくわれたいという自分のこころが無効にされる。すくいを問題にしないすくい。言葉に出来ない。

「唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。」
(『尊号真像銘文』【真宗聖典】513頁)

すくわれないということを知らせる。ありとあらゆる人がすくわれていくという願いを知らされる。わたしそのものが本願に誓われる。
ただひとりぼっちですくわれていく虚しいすくいではなく、みんながすくわれていく世界。

名によるすくいはこういうことだと思う。

「無慚無愧のこの身にて
  まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば
  功徳は十方にみちたまう」
(『正像末和讃』愚禿悲歎述懐4【真宗聖典】509頁)

すべてのひとのすくいとわたしのすくいが溶け合っていく世界がある。

名誉欲と利益欲。そういう自分を他人に正直に言っている自分にさえも酔う。拭っても拭っても出てくる悉知義のささやき。本当は拭ってすらいないのかもしれない。自分の中では。
結局自分は十八願から除かれているということからの宙ぶらりんさを感じ、ここにいる今、南無阿弥陀仏を十方世界に響かせている源にいる自分を感じる。
一方で、ある意味声聞である自分。自分だけがどうにかなりたい。自分だけは。これはすくわれたいという言葉にするとすくいがなにかに捕らわれるが、自分がどうにかなりたいのだ。形容しがたいのだけど、安全で不安がなくて楽で…。具体的に何ではない。そういうふうになりたい。だから自分は聴聞しているのだろう。聞いたらなんかわかるかもしれない。いままで声聞は他人ごとだと思っていた。そうではない。広い世界の目覚めを他者と共にと思う気持ちのない自分のことではないか。
そういう自分にはたらきかける真如の世界。
喚びかけてくる南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の名前であり自分の名前であり、十方衆生の名前である。すべての接点は南無阿弥陀仏。今の自分から見て決して同じといえないもの、一切平等とまったく思えないもの。それに真如は南無阿弥陀仏と喚びかける。これだけでしか自分はわからない。一点。接合点。わたしの世界と真如の世界。
絶対すくわれない自分がいるから本願がある。でも自分が救われたい。どうして自分だけがすくわれないのか。
南無阿弥陀仏と喚びかけられる。
自分以外の南無阿弥陀仏の仮名をしる。全部は分からないけど、南無阿弥陀仏で知らされる。どうしてもすくわれたいわたし(と同じ名前の存在)。
自分だけすくわれるのではない。同じ名前のものもすくわれなければとひっくりかえされたときに、二十二願の弘誓の鎧を着るべきものに至る一心があるのかもしれない。自分の思考、思いの中にそのようなものはない。妄想は出来る。自分の意思で迷いの世界に残ります!宣言するとかではない。

自分はこのように聞いた。

 

◆前回まで

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