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『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第十回(瓜生崇師)

2021年10月17日(日)
『無量寿経』を読む-ZOOM講座-阿難コース 第十回 (瓜生崇師)
「過去五十三仏について」

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【質問コーナー】
・質問1
布教使の先生のなかにはこういった質問をしても「そんなこと考えず念仏しとけばいい」とか、「そんな質問は疑いがあるから出てくる」とか。正論をぶつけられるだけの先生がいらっしゃいますが、瓜生さんはどんな質問に対しても真摯に向き合って下さるので本当に有り難いです。

…質問したらそんなこと言われてしまうこともあるのか…。それは自分だったらショックだな…。分からんから聞いてるんだと思うんだけど…。

如来と如去、智慧と慈悲について
釈尊の「わたしを目覚めさせたい」という(智慧に基づいた)慈悲によりわたしに届けられたはたらきを阿弥陀仏と呼ぶのでしょうか。
弥陀釈迦の順序が崩れてしまい、どうしても釈尊の悟りありきのイメージになります。

究極的には空の真理にいけない。考えれば考えるほどドツボにはまっていく。親鸞聖人は亡くなるまで考えていった。
お釈迦様が目覚めた世界は言葉を超えた世界だ。われわれは言葉でしか見ることが出来ない。知った途端に自分の世界の話になってしまう(龍樹)。
わたしが覚ったと自分が言ったとして、それを証明することは出来ない。ジャイナ教の覚者は覚ると1ヶ月くらいで朽ちて死んでいくという。食欲も生きる気持ちもなくなっていく。

・無分別後得智 無分別の世界を覚った後に分別の言葉となってはたらく
 第一義諦・法性法身 ⇔ 俗諦・方便法身

「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」
(『歎異抄』五条【真宗聖典】628頁)

真如からみたらわたしは一人子にみえる。それであれば必ずわたしにはたらきかけてくる。
如来は現実にはたらく。

①    お釈迦様と阿弥陀様は一緒だという見方。法藏菩薩と釈尊の類似性。お釈迦様をモチーフ。阿弥陀さまはお釈迦様のことですという人もいいます。これも間違いではありません。
②    親鸞聖人の見方。阿弥陀さんはお釈迦様を目覚めさせたはたらき。龍樹が最初に言い出したとおもう。お釈迦様もほかのいろいろな仏の願いによって目覚めたと言っている。お釈迦様が生まれる前にもはたらきはあっただろう。真如の世界(本来の世界)はお釈迦様が生まれる前からあった。お釈迦様は阿弥陀さんについて一言もいってない。お釈迦様の後に阿弥陀さまができたと歴史的、仏教的にいわれるが、阿弥陀のはたらきはあった。お釈迦様を目覚めさせたはたらきに阿弥陀とか浄土と名前をつけていった。

「「涅槃」をば、滅度という、無為という、安楽という、常楽という、実相という、法身という、法性という、真如という、一如という、仏性という。仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法藏比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。この如来を報身ともうす。」
(『唯心鈔文意』【真宗聖典】554頁)

あなたは本当は如来の世界に居る。でもあなた自身が虚構の世界に閉じこもっている。夢の中にわたしを目覚めさせるはたらきが届いている。これが仏性だ。ほとけになる種。仏性は本当の阿弥陀さまの姿だ。それについて認識したりことばで表したり出来ない。言葉の世界に居るものに、言葉の世界として届くのが阿弥陀さま。法藏菩薩の誓願の話はわたしのために認識に応じて出てきてくれた。龍樹、世親、曇鸞、道綽、親鸞聖人がここにめちゃくちゃこだわっている。
質問の回答としては真如のはたらきのひとつとしてお釈迦様の目覚めがあったということです。

・質問2
悟りを開いたら、『阿弥陀経』に絵が描かれる世界感も存在しないのでは?
(倶会一処ってなりたたないんじゃないんですか?)
浄土は悟りを開く世界。
涅槃は悟りを開いた世界
なかなかむずかしいところ。

親鸞聖人は、教えの中で懐かしい人と会えるという意味で「倶会一処」は書かれない。化身土巻に方便については書かれていく。
曇鸞大師。みんな空だと気がつくと、あらゆるはたらきが停止する。そうすると、真如のはたらきが止まってしまうじゃないか。終わってしまうじゃないか。そこから一歩も動けなくなってしまう。七地沈空(『華厳経』)。そんなはずないじゃないか。現にわたしはここで空もわからず、聞いても聞いてもわたしのすくいにならず、苦しんじゃないか。このわたしに分かる姿で真如は届かないとおかしいじゃないか。具体的にわたしのすくいにならない。
方便法身の姿をありがたがっていればいいのではないかという考えは違うという。方便にもとどまらず、真如の世界にもとどまらない。

ああ、これ中道だ。どうしても偏る。できない。お釈迦様はこれに気がついた。むずかしいな。どっちにもいかないってすごくむずかしい。

・浄土
「安養浄土の荘厳 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし」
(『高僧和讃』天親讃2【真宗聖典】490頁)

・浄土は真如そのままが無限に活動している相です(稲城選惠和上)
悦びという一面で仏法を語ることが多いが、不安や苦しみの形でも本願は届いていると思う。

最後に安田理深の不安についての文章を取り上げられている。不安。自分の心をコントロールすることも出来ない。なのに自分であることはやめられない。指針がほしい。でも本当にその指針を理解することもできない。そういうのを確認するなあ。自分のこころを。不安は如来。

【過去五十三仏】
お釈迦様は普段と変わらないのだけど、それを見る阿難のこころが変わった。
自分のこころの見方が変わった。
阿難のこころを変えたのは、われわれ。
阿難を起たせて、仏仏相念の世界を見せたのは、わたし(あえてわたしと書く)。

※覚った人が自らを覚ったと主張することについては是非動画で見て欲しい。

わかっていることと、説明できることはちがう。
われわれは本当のところはわからない。でも知りたい。それで納得は出来ない。わかりたいけどわからない。阿難を通して質問をさせた。道を求める無数の人たち。
このお経を作らせたのはわたし。わたしがそれを望んでいるから(あえてわたしと書く)。

過去も現在も未来も今の一念におさまる(龍樹)
仏教でいう時間は今だけ。仏教はいまが大事じゃない。今しかない。
無量寿経の会座はいまここに開かれている。

錠光→たくさん→世自在王→法藏
教えは伝えて行かれることによって深まっていくと伝えている。書いた本人ですらその作品の真の意味を見いだすのが仕事だ(評論家)。お話でも自分が話した以上のものを受け取っていく人がいる。そのときそのときの苦しみ、気づき、他の宗教もまじっていく宗教。その思い、声、思考で教えは深まっていく。お釈迦様が書いたものが最高で、それが劣化していくのではなくて、お釈迦様の教えからお釈迦様が考えもしなかったような深まりを見せてきた。これが大乗仏教。五十三仏でいいたいことはこれ。
初期の無量寿経から後記の無量寿経は変わっていく。無数の人々によって深められたもの。仏教を作って行ったのは名もなき無数の人々。
巍訳の五十三仏は最初が錠光だが、サンスクリットは世自在王仏が最初。逆でおもしろい。世自在王仏、法蔵がすべての根源(最初)という見方も出来るし、無数の仏により深められてきた存在(最後)とも見ることが出来る。

お聖教に尋ねるしかない。自分が読んでいく。正解はこれだといわれてもわからないときがある。こういうことにうんざりしている。勉強はさせてもらっているとは思うけど、「正解はこれです」といわれるのはすごく窮屈で、そんなものを聞きたくて聞法しているのではないという気持ちになる。あなたの正解はわたしの正解ではない。でも本願は一緒だろう。前回聞いた香月院の言葉が残っている。「本願が違うたというのであるまい。」
自分はわれわれという複数形より、わたしという単数一人称が大事だと思っている。わたしがなければわれわれがない。最近そういうことを考える。わたしに気がつかないとわれわれにも気づけない。

 

◆『無量寿経』を読む 

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