今週末いろいろ忙しいのだが、土曜の夜だけ予定が空いたので法話案内を見たら、毎月必死に大和郡山まで行っている瓜生師の報恩講夜座が、自宅から30分以内の所であるではないか!!!!ということで急遽行ってみた。
浄業寺 報恩講 瓜生崇師
http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=46048
こぢんまりした住宅街のお寺だったが、温かく迎え入れていただいた。高齢の御同朋は後方壁際のゆったり席にみなさんいらっしゃる。
今日のお話は二河白道。実は聞法を始めた初期の頃に瓜生師の二河白道を一度お聞かせいただいている。周りの方も、「ああ、二河白道の話か」という安心したというか、なるほどなるほどという雰囲気である。有名なテーマの一つ。
以下、備忘録。
「私」が西(本当のことがある、すべてのものが帰って行くところ)を目指してゆく。
【本当のことを求めることの難しさ】
・人生は、振り返ったらあっという間。夢の中で生きているよう。一生懸命生きている。自分を納得させて生きていく。
・どんなにいいホテルに泊まっても、自分の家の方がいい。どんなにいいベッド、バスルーム、ソファーがあったとしても、必ずチェックアウトさせられる。人生は必ずチェックアウトさせられる。じゃあ、人生でいう自分の求める本当のこととは。
・「最後は死ぬのにどうして今を一生懸命生きなくてはならないのか」という小学生の問いに「暇だからそんなことを考える。忙しくなったら忘れる。忘れるようなことであればたいしたことではない」と大人が否定する。
→ほとんどの人の人生はそうなっている。
【お経は鏡(善導大師)】
・仏法を求めるというのは、自分の姿を見るということ。
・右に「愛欲」の水、左に「怒り」の炎の川にたどり着く。自分しかいない事に気がつく。独り。
・「愛欲」は分別する心。”死”一つとっても、自分にとって大事な人かどうかで違う意味が生じる。冷たいものなのだ。だから水。深くて冷たい。蛇蝎のごとし。
・「愛欲」と「怒り」の自分と向き合って、「自分というものを省みた」といっている時点で分別が働いている。そうおもっているだけ。蛇蝎のごとくのものを見たら、叫ぶしかない。
【分別と難信の法】
・分別は煩悩のこと。どうしても人間からはなくならない。
・阿弥陀経では、煩悩のある私達が、自分にとっていいところだと分別できるお浄土を現わしておいて、最後にこれは「難信の法」であると。わかるものでないとおっしゃる。
・すべてが平等な世界。蛇も、ゴキブリも、虫も、人間も。自分の子供も地球の裏側の知らない人も平等な世界など、いいとも思えないし、受け入れられない。人間には受け入れられない。
【白道】
・群賊・悪獣の中には僧侶がいる。仏法を煩悩に合わせて説いて、これで救われるとありがたがらせることで西へ向かう心を惑わす。これがやっかい。私たちは群賊・悪獣のことばでしか理解できない。それらに追い立てられて白道に向かうのだ。
・白道は「すでにあった道」。信心、信仰心とも言えるもの。でも自分でこしらえたものではない。すでにいただいていた道なのだ。白道の前で自分と向き合う。独りで向き合う。他の人なんてわからない。細く頼りない道。
・釈尊はこっち側から「死なないから白道をお行きなさい」という。
・阿弥陀如来は彼岸より「すべての水火の難に堕せんことを畏れざれ」。
・阿弥陀如来はどんなに背いても、追ってくる。必ず追ってくる。摂取不捨。落ちても追ってくるのだ。
・行けといわれ、どこまででも追いかけるから来いと言われ歩み出す白道への第一歩。
そこで正定聚となる。必ず救われる身となる。
・白道は、本当のことを求める「私」と必ず「私」を救うという如来の願いが合わさった「南無阿弥陀仏」である。
・南無阿弥陀仏がとどいたから正定聚となる。届くのは足下。どこまでも追っていくから阿弥陀さまは足下に届けてくださる。
【白道】のところは、最後15分ほどのお話しだった。それまでの「愛欲」や「分別」、「本当のことを求められない」ということを例えと自分の中の出来事を照らし合わせながら聞かせていただいていた自分は、このお話しに入った瞬間から一気に自分が二河白道の前に立たされ、釈尊の言葉を後ろから、阿弥陀さまの言葉を向こうからお聞かせいただいている「今」に置かれたのを感じた。決して、「今私が正定聚になりました!」という話ではないのだ。でもお聞かせいただいている中でその「今」というものを感じたのだ。夢ではないけれども、それが事実と感じられる場に「今」たったのだ。
このお話の部分は、完全に聞いている側の空気が変わった。あ、今自分たちが連れて行かれたという感じだった。かつては放り出されたと思ったところなのであるが。
如来の願いから南無阿弥陀仏が自分に届くさまを見せられる様な瞬間。
あくまで煩悩を通してしかわからない自分ではあるが、やはりどうしても言葉の先の何かをお聞かせいただいている。今日もそう思うのだった。お聴聞は不思議だ。
より自分自身が熱くも冷たくも感じ、自分の目の前の白道を見る二河白道の譬えであった。
南無阿弥陀仏