如是我我聞

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長源寺 同朋学習会「無量寿経」(18)(瓜生崇師)

長源寺 同朋学習会「無量寿経」(18)(瓜生崇師)

2022年4月28日(木)19:30~21:00

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「一六 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ。」(『無量寿経』【真宗聖典】18頁)
わたくしが仏になりましたならば、お浄土に生まれた者は、不善(よくない)の名を聞くことがあるようであれば、悟りません。

「大乗善根の界、等しくして譏嫌(そしりきらwれる)の名なし、
女人および根欠(六根が欠けているもの)、二乗の種、生ぜず。」
(『無量寿経優婆提舎願生偈』【真宗聖典】136頁)
「二乗と女人と諸根不具の三種の名を聞かず、かるがゆえに離名譏嫌と名づく。等とは、平等一相のゆえに。」
(『無量寿経優婆提舎願生偈』【真宗聖典】140頁)
「かの仏国土には三悪趣なければなり。舎利弗、その仏国土には、なお三悪道の名なし。何にいわんや実にこのもろもろの衆鳥あらんや。」
(『阿弥陀経』【真宗聖典】128頁)

・三悪道 畜生・餓鬼・地獄
・六根:体の感覚。欠けている=身体障害者
・女性
・二乗:声聞 と 縁覚(ひとりですくわれていく)
これらの謗り嫌われる名を聞かない。

浄土に声聞が一杯いると書いてあるところもある。浄土は平等の世界なのにどうして三悪道や女性、障害者がいないと書いてあるのか疑問に思わないですか?一番すくわれるべきものじゃないですか?
親鸞聖人は、
「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」
(『歎異抄』二条【真宗聖典】627頁)
とおっしゃっている。こういう身であればお浄土にいけないことになる。女性が無理ということになったらお寺の婦人会ってどうなるんですかね。
そういう差別的なことを書いていいのかという思いになるが、なぜかかれているかのヒントがある。差別をするような名前がこの世界に存在しないと言うことをいっている。わかりにくいけど重要なこと。
大乗仏教は女性差別とふれながらやってきた歴史がある。お釈迦様は元々女性の出家を認めていなかった。女性が出家したら男性信者の修行の妨げになるから。それに阿難が反抗した。女性は悟りを開けないんですか!?と詰め寄る。うそをつけないブッダ=お釈迦様は、女性も悟れるとこたえる。それであれば女性の悟りの道を閉ざしていることになる!と強く訴えられて認めた。
その後やはり問題が起きて、男性は俺たちがしっかりしなければとならず、女性の出家について差別されていくようになる。仏教は女性を差別していくこととずっと紐付いている。なので『無量寿経』にもこういう差別表現と感じるものがある。
 ここでは、女性や障害者がすくわれないのではなくて、そういうものを分別しているわたしに問題があるということ。「名」を以て分別しているんだということ。
・ゴキブリはひらべったいコオロギかもしれないのにゴキブリと名前をつけて分別している。
われわれは名前をつけて分別している。これに苦しんでいる。

【わたし】
自分には名前があるが、わたしを見ている人によって見方が全然違う。
自分の認識している姿と他者が見る姿が違っていて苦しいことがある。
自分とは一番長く付き合っているけど、「こんな自分がいるとは」と思うことがある。自分が思っている自分の姿も本当ではない。
仏教では、そんなものはどこにもないという=無我
わたしは誰かとの関係性の中で仮設されている。仮名の存在。名にすぎない(中村元)
わたしが始まったのはいつか?誕生日ではないだろう。いつからか自我が芽生えたのじゃないか?正確にいつかわからない。
夢にも似ている。夢もいつからか始まっている。
自分が生まれたのどこか。相手との関係の中に生まれた。わたしとわたし以外を自覚した。
無我のわたしが浄土に生まれるとはどういうこと?曇鸞大師はいまのわたしは「穢土の仮名人」で、浄土に生まれるのは「浄土の仮名人」だという。親鸞聖人は、これについては龍樹の『中論』を読んでおいてで終わっている。
わたしはどこにいるのか、関係者との間にいる。実体がない。

【去るものは去らず】
・瓜生は去って行く
はおかしい
・去って行く瓜生
しかない。「不変の実体』が去るという行動を取っているのではない。瓜生という名前をつけている。一瞬として同じものはないのに。

ああああああああ
また『中論』読まなくちゃ。これそうかとおもったそばから忘れる。
・悟りの世界は一切の物事を分別する名前がない。しかし、浄土や涅槃を説明しようとしたら、名前で知らせるしかない(俗諦)。
 それがはたらきとしてわたしに届いたものが法藏菩薩であり南無阿弥陀仏であるという。
・南無阿弥陀仏は名号という名前。われわれの迷いの根底。真如の世界から南無阿弥陀仏の名になってわれわれに届く。絶対言葉で表せないものを言葉とこころで考えている。

・法性法身:言葉で表現できない→かならずわたしに言葉で働きかけてくるはずだ
→相依性:互いが互いを成り立たせているから。だから依っている相手がはたらきかけるということ。→南無阿弥陀仏
 迷っている自分がいるから真実が区別されている。おおおおおおお。

「一七 たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。」
(『無量寿経』【真宗聖典】18頁)
約束の対象は、仏さま。お釈迦さまもこの中に入る。法藏菩薩の願いだから、法蔵の名を呼ぶはずだが、なぜかこれは南無阿弥陀仏と法蔵が悟りを得て仏になった名前を呼ぶ。
宇宙全部の仏さまにわたしの名前を呼ばせる。
諸仏称揚の願(褒め称える)、諸仏称名の願、諸仏咨嗟の願(嘆息して褒め称える)、往相回向の願、選択称名の願、往相正業の願

「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」
(『無量寿経』巻下【真宗聖典】44頁)
これは十七願の成就文。
浄土:無限の光と命があり、差別がない。無我、無相。境界を作らない。一切平等の世界に差別はない。
わたしたちはこれを認識できないから、言葉となってはたらきかけている。無限の光と無限の命が名になる。
この空の世界が仮に言葉になったとしてもわれわれにはわからない。こんな壮大なことをわかる人がいない。法蔵はこの願いを諸仏に依頼する。仏仏相念で仏同士が相念じ合って南無阿弥陀仏を伝える。わたしたちは仮名の存在だといわれてもわからない。わたしは浄土に生まれて幸せになって満足したいと思う存在。言葉によって迷っているから言葉になるしかない。それを理解してくれる仏さまに法蔵はまず呼びかけた。この願いが素晴らしいと諸仏は応えて南無阿弥陀仏と褒め称える。

「無量の大聖、 数、恒沙のごとくならん。
一切の、 これらの諸仏を供養せん」
(『無量寿経』巻上【真宗聖典】12頁)
「「この義弘深にして我が境界にあらず。唯願わくは世尊、広くために諸仏・如来の浄土の行を敷演したまえ。我これを聞き已りて当に説のごとく修行して所願を成満すべし。」(中略)「この義弘深にして我が境界にあらず。唯願わくは世尊、広くために諸仏・如来の浄土の行を敷演したまえ。我これを聞き已りて当に説のごとく修行して所願を成満すべし。」(中略)ここに世自在王仏、すなわちために広く二百一十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与えたまう。時にかの比丘、仏の所説の厳浄の国土を聞きて、みなことごとく覩見して、無上殊勝の願を超発せり。」
(『無量寿経』巻上【真宗聖典】14頁)
法藏菩薩は自分の願いを立てるときに、あらゆる諸仏の話をきいて学んでいる=諸仏の願いを超える願を立てている。諸仏の本願である。だから諸仏は賛同した。

諸仏を通して法蔵の名=南無阿弥陀仏がわたしに届いた

「「称」は、御なをとなうるとなり。また、称は、はかりというこころなり。はかりというは、もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。」
(『一念多念文意』【真宗聖典】545頁)
ものさしではかるようなものだ。ものさしではかったときに、10センチであることにわたしの思いは入らないですよね?南無阿弥陀仏が聞えたという事実は疑いようがない。十七願がわたしの上に成就した。これがわたしが浄土に生まれる証なのだという。

「如来とひとしというは、信心をえて、ことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶 則我善親友」(大経)とときたまえり。また、弥陀の第十七の願には、「十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚」とちかいたまえり。願成就の文には、よろずの仏にほめられ、よろこびたまうとみえたり。すこしもうたがうべきにあらず。これは如来とひとしという文どもをあらわししるすなり。
(『御消息集善性本』【真宗聖典】592頁)

往相回向は十七願、還相回向は二十二願とみられた。
還相回向:悟ったものが迷いの世界に戻ってその中でみんなを目覚めさせる菩薩となる。
     (法藏菩薩)
往相回向:凡夫が輪廻の世界で迷っているなかで仏さまのはたらきをする。お念仏を称えるものは諸仏のはたらきをするから。阿弥陀さんの願いに応える姿。諸仏は南無阿弥陀仏を称えたら、わたしを褒めてくれる。だから喜びが尽きないんだとおっしゃっている。

すごい。『阿弥陀経』の法話を聞いてから思っていたのだけど、実は十六願ってすごく大事じゃないか…。一切平等の世界を絶対わからないところからぎりぎりまでを龍樹の「嘉仮名」で知らしめる。すごい。不善の名が、ない。この表現のすごさ、『阿弥陀経』で声聞縁覚もたくさんいて、そしてそれを区別する名がない、菩薩と共に仏道を歩めると・・・。どうしても文面に単語が出てきたらそれから自分は読み込んでしまう。でもこれはそうするわたしの『普通』を打ち破ってくる。
つづく十七願で仏仏相念により法蔵の決意が諸仏に伝わり宇宙に讃嘆する南無阿弥陀仏が響く。これが凡夫に伝わり、自分の元へ。なんという大乗の流れ!!!
自分は法蔵が諸仏に聞いていくところが好き。そして諸仏が驚きを持って讃嘆するところが生き生き感じられて、その喜びが自分達凡夫の世界に届いているのだとすごくイメージできてしまう。
この「名がない」という表現、自分にとってはすくいになる。区別されない。いいじゃないか・・・。そんなところであれば行きたいと思う。
すべては仮の名。わたしは法藏菩薩の願いの南無阿弥陀仏を聞いて称えた。これはわたしと法藏菩薩のあいだ。不取正覚。それをいう法藏菩薩と仮名のわたしの対峙。でもさ、自分は親殺し(口意)、やってるよ。除かれるよね。そして法蔵の願いは叶わないからずっと南無阿弥陀仏は響き続けるよね。親鸞一人がためにっておっしゃたのを聞いて、「じゃあ、親鸞聖人の心の中の問題じゃん。わたしのためじゃないんなら」と思ったことがあった。此は自分の世界の話。仮名のわたしは真実の世界から言葉となった南無阿弥陀仏のはたらきに出遇う。我が名を称えよと呼びかけられる。呼びかけられるときのわたしの名前は南無阿弥陀仏。
となりの誰かも隣の誰かの世界で真如に呼びかけられる。南無阿弥陀仏とそれはわたしには正確にわからないけど、そうだろう。
真如の世界の南無阿弥陀仏と穢土の仮名のわたしが一つになる世界。南無阿弥陀仏が成就する瞬間。救いがたいわたしの存在があるから真如ははたらきかけてくる。はたらきかけずにおられない。
自分でわかっているのは、自分が一番すくわれがたいと言うこと。この自分ワールドでわかるのはそれぐらい。みんな仮名の数だけ持っている世界。無我といわれたてもここにあるとしか思えない。
そんな世界にいることを考えながら、また明日も出勤するのだ。

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