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唯信について考える 唯信鈔文意を読む(2)瓜生崇師

2022年8月6日(土)19:30~
真宗ねこねこ法話会
唯信鈔文意を読む(2)[シリーズ 晩年の親鸞聖人に遇う]瓜生崇師

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「「唯信抄」というは、「唯」は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。また「唯」は、ひとりというこころなり。「信」は、うたがいなきこころなり。すなわちこれ真実の信心なり。虚仮はなれたるこころなり。「虚」は、むなしという。「仮」は、かりなるということなり。「虚」は、実ならぬをいう。「仮」は、真ならぬをいうなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」という。「鈔」は、すぐれたることをぬきいだし、あつむることばなり。このゆえに「唯信鈔」というなり。また「唯信」はこれ、この他力の信心のほかに余のことならわずとなり。すなわち本弘誓願なるがゆえなればなり。」(『唯信鈔文意』【真宗聖典】547ページ)

『唯信鈔文意』が書かれたのは親鸞聖人78歳の時。

「 一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」
(『歎異抄』第二条【真宗聖典】626,627ページ)
ここに出てくる「信」が唯信の信。念仏。
最近第二条を振り返るときが多いなあ。
よき人=善友
「唯」にすべてが入っているのが仏教のはずだが、これになにかを足してしまうわたしたちがいる。
関東の御同行が教えに迷いほんとうはどうなんだと親鸞聖人のところにやってくる。

菩提心 聞法心 そうだなあ。聞きたいと思うことも心の底のどこかに「聞いて知りたい」「知ったものになりたい」というものがあると思う。信じられるものはないという大前提の冷ややかなこころの底があって、「でもひょっとしたら本当のことがあるかもしれない」という願い、あるなら聞きたい、あると証明して欲しいというような気持ちでいるという方が正確かもしれない。

普くもろもろの衆生 すべてのひとを含んでいる(by曇鸞)
そう。「普く」で自分を入れてもらえている。そしてそれが一人がためなりになる。それに報いるのは「南無阿弥陀仏」でしかない。それはありがとうございますとは自分の感覚ではわいてこない。ただ、応じるのではないか。応じるしかないから。

自分は自分の経験そのままを開示することはまったくしたくない。こんな良いことがあった、辛いことがあったみたいなもの。でも仏法に関して思うことは自分メモだから思うことを書いていこうと思う。